池のほとりに咲いた花

~ 第三章 : 「嵐」 ~

 窓の外からは、雨が地面を打つ音が絶え間なく聞こえてくる。
 …今日も雨かぁ…。
 あたしはぼんやりと窓の外を眺めていた。
 あの日からほぼ一週間。あたしは、そのほとんどをこの部屋から出ることなく過ごした。
 神主さまには、体調が悪いと言って。
 はやくよくなるようにと言ってくれる神主さまに、あたしは少し胸が痛い。
 そう。佐一さんも二回ほどお見舞いにきてくれた。でもあたしは、気分が悪いからと言って会わなかった。
 本当はとっても会いたかったんだよ。
 でも、どんな顔をして会ったらいいの?
 胸を締め付けるような感じは今も変わらない。
 無意識のうちに柱をつかむ手に力がこもっていた。
 でも、手の痛みなんかより、心の方がずっと痛かった。

 その晩、あたしはただ一人部屋にいた。
 ろうそくの小さな炎が、部屋の中をゆらゆらと弱々しく照らしている。
 あたりはしんと静まり返って。雨音だけが遠くで規則正しい音を投げかけている。
 深呼吸を一つすると、あたしは用意しておいた小刀を手に取った。
 鞘から抜いた刀身が、一瞬、炎にきらりと光る。
 息をとめたまま、あたしはその刃を自分の腕にそっと当て、そして静かに引いた。
 ちくりとした鋭い痛みが走る。
 そして、あたしはおそるおそる腕から刃を離した。
 腕に赤い筋がゆっくりと浮かび上がり。それは、やがてしずくとなって、ぽたりぽたりと落ち始めた。
 …あたしの血も赤いんだ…。
 あたしは腕を見つめたまま、ぼんやりとそんなことを考えた。
 腕からしたたり落ちた血が、下においた小皿の上で次第に池を作り始めた。

 あたしは夢を見ていた。
 あたりはまっ暗闇。その中をあたしは必死に走っていた。
 はちきれそうな不安で胸がいっぱい。
 息が切れる。胸が苦しい。ぐらと目の前がかすむ。
 次の瞬間。とてもきらびやかな宮殿かお城のような建物が見えた。
 柔らかい日差しの中で、その白い建物はまるで自ら輝いているかのようだった。
 うっとりと、でもなんだか懐かしい気持ちであたしは呆然と立っていた。
 そして、大きな誰かの顔が浮かぼうとしたとき。
 また風景が切り替わる。
 一本の薄紅色の花の咲く樹が立っていた。
 そのとき。一陣の風が吹いて、花びらが次々と宙に舞った。
 無数の花びらがくるくるとまわり、その中央にぼんやりと池が見えた。
 あたしはその池をとっても高いところから見下ろしていた。
 その池のほとりに人影が見えたような気がして。
 しかし、じっと見つめた瞬間に、風景にさざ波がたった。
 そしてすべての景色がぼやけて。
 あたしは目を覚ました。

 あたりはまだ薄暗い。
 全身にびっしょりと汗をかいていた。
 ふぅ…、またあの夢だ…。
 最近よく同じ夢を見る。ううん。正確には同じじゃない。だんだん輪郭がはっきりとしていく感じ。
 これって…。
 あたしは、自分の肩を抱き寄せて、ぶるっと身震いした。
 あたしは着物を肩にはおると、窓辺に立って外をながめた。
 雨は今日もやむことなく降り続いている。
 まだ日は昇ったばかりなのだろう。あたりは薄暗い闇に包まれていた。
 あたし、記憶が戻ろうとしているのかな…? でも…こわいよ…。
 そのとき、遠くからゴロゴロと低い音が響いた。
 雨雲に、いつの間にか雷雲が混じっていたようだ。
 そして、何気なく顔を上げた。
 その瞬間!
 ガラガラパシーン!!
「きゃっ!」
 目の前で、突然巨大な雷光が龍のように天に立ち上った。
 強烈な光が目を灼き。しばらくは視界が真っ白で何も見えなかった。
 それが落雷だと気づくまでに、しばしの時が必要だった。
 落ちた場所は近い。
 冷静に考えれば、それがあの池の近くだということも分かっただろう。
 でも…。
 そのときのあたしには、そんなことを気にしている余裕なんてなかったんだ。
 いや、気付いたところで、同じ行動をとっていたのかもしれない…。

 降りしきる雨の中。あたしは全速力で走っていた。
 急がなきゃ…!
 すべてが手遅れになる前に…。
 あたしは息を切らしながら、だが休むことなく町への道を走り続けた。
 あの稲妻が落ちたとき。
 あたしの中で、何かのスイッチが入ったんだ。
 あたしは今すべてを思い出していた。
 あたしが誰なのか。どうしてここにいるのか。
 そして、今から何が起ころうとしているのか!

「佐一さん…」
 息切らせて玄関の戸を開けたあたしの顔を見て、佐一さんはきっとびっくりしたことだろう。
「葵ちゃん! どうしたんだ、いったい?」
 あたしは全身濡れねずみ。髪や服からは水滴がしたたり落ち続けている。
「さあ、中に入って」
 佐一さんはあたしの手を取ると、無理矢理部屋の中へ引き入れた。
 部屋の奥にあった大きな手ぬぐいをあたしの頭にかけてくれて。
「どうしたんだい?」
 佐一さんは、いつもの優しい目であたしの顔をのぞき込んだ。
 あたしが弾む息を整えながら。
「じつは…」
 と、ちょうどしゃべろうとしたとき。
「佐一、いるか!」
 玄関の戸が再び勢いよく開いた。
 そこに立っていたのは、笠と蓑を付けた中年のおじさん。笠から雨水が流れ落ちる。
「ちょうどよかった。急いで堤防まで出てくれ。水かさが増している。人手がいるんだ」
 近所の人なのだろう。おじさんの言葉に佐一さんの顔が、さっとこわばった。
「分かった」
 佐一さんは短く答えた。おじさんは軽くうなずくと、隣の家へと向かおうとし。そこでふと振り返って付け加えた。
「このあたりも危ないかもしれん。咲ちゃんには避難していてもらった方がいいぞ」
 おじさんが出ていった後も、しばらく佐一さんは何も言わなかった。無言のまま、家の奥から蓑と笠を取り出して準備する。
 あたしの心臓がどくどくと早鐘のようになる。
 いけない…。川へ行っちゃいけないの…。
 あたしはそう言いたかった。でも…。でも、言えなかった。
「葵ちゃん、すまないが咲をつれて神社まで行っててくれないかな? あそこなら大丈夫だと思うから。ごめんね。話を聞いてあげられなくて」
 あたしは無理矢理ほほえんで、頭をふった。
 今のあたしに、どうして彼をとめられるだろう?

 あたしは、先ほどと同じ道を、今度は咲ちゃんを背中におぶって歩いていた。
 咲ちゃんを背負っているから走るわけにはいかなかったが、それでもあたしはできる限り急いで道を進んだ。
「おねえちゃん…」
 咲ちゃんが弱々しい声であたしに話しかける。
「なあに?」
 あたしはつとめて明るく答えた。
「この前は…ごめんなさい…」
 咲ちゃんはそれだけ言うと、あたしの背中に顔をうずめた。
 あたしにはすぐに、何のことだか分かった。
 もしかしたら、あの後、佐一さんに何か言われたのかもしれない。
 でも、あの日から咲ちゃんはこんな小さな身体の中で独り悩んでいたんだ。
 そう考えるとあたしは胸がいっぱいになった。
「なんだ、そのことか。いいんだよ、気にしなくても」
 あたしはうまく言えただろうか?
 今日ほど雨をありがたく思ったことはない。
 しだいに激しさを増していく雨は、あたしの顔も横なぐりにぬらしてくれていた。
 咲ちゃんだけじゃない。
 あのおじさんをはじめとした、たくさんの町の人たち。
 もし川があふれ堤防が決壊したら…。
 あたしは軽く頭をふった。
 もしものために、佐一さんには避難していてもらおうと考えていた自分の甘さに腹が立つ。
 時間がないのは分かっていた。でも、自信があるわけじゃなかったから…。
 でも。この雨の原因はあたし。
 そんな自分に、どうして川へと向かう佐一さんをとめられるだろう。
 そうなんだ。
 失敗は決して許されない!
 この雨をとめられるのはあたしかいないんだから!
 激しい雨の中、あたしは道を急いだ。

 神社へ戻ったあたしは、まず部屋で咲ちゃんの髪を拭いてあげた。
 そして、いつもの巫女の衣装に着がえる。
 なんだかんだいっても、これを着ていた時間が一番長かったから。
 だから、あたしはこの衣装を選んだ。
 そして、赤い組みひもを手にとり。髪をしばる。
 佐一さん…。
 あたしは心の中でつぶやく。
「おねえちゃん…?」
 咲ちゃんが不安そうな顔であたしを見上げた。
 咲ちゃんには隠し事はできないのかもしれない。
 でも、本当のことを告げるなんてできないよね。
「なあに?」
 だからあたしには、明るく答えることしかできない。
「そうだ、咲ちゃん」
 あたしは、裁縫箱の上に置いておいた小さな紙の包みを手にとると、咲ちゃんの手をとってその上にのせた。
「これはね、目によく効くっていうお薬なの。佐一さんがここへきたら飲ませてもらうといいわ」
 その包みの中身は、乾燥して粉になったあたしの血液。
 人魚の血は、万病に効く。咲ちゃんの目にもきっと効くはずだ。
 悩んだ末のあたしなりの結論。
 あたしが、佐一さんと咲ちゃんにしてあげられることはこれくらいしかない。
 あたしからの、これがあたしからの精いっぱいのお返しだ。
「あたしはちょっと出かけるけど。ううん。すぐ帰ってくるから大丈夫よ」
 あたしは不安げな咲ちゃんにとびきりの笑顔を残すと、振り返ることなく、部屋を飛び出した。

「行くのかい?」
 神社を出ようとしたあたしに声をかけたのは。
「神主さま!」
 玄関のわきから姿を見せたのは、いつもと変わらない神主さまの姿。
 白いあご髭につるつるの頭。小柄な体で、でもとって大きな心であたしを受け入れてくれた神主さま。
 短い間だったけど。とってもお世話になった。
 言葉では表現できないくらい感謝の念は強い。
「神主さま、あたし…」
 あたしは、一瞬、本当のことを告げようか迷った。
「いいんじゃよ、何も言わんでも」
 だが、神主さまはそんなあたしを手で制し。
「自分の道を信じて進め、じゃろ?」
 にっこりほほえんでそう付け加えた。
「神主…さま…!」
 そのときのあたしの驚きといったら。
 瞬間、懐かしい風景が浮かぶ。
「宗弥くん…、まさか。あなたが神主をしているなんてね…」
 そうだったんだ…。
 懐かしさに涙があふれそうになる。
 彼はすべてを知った上で、あたしをあたたかく見守ってくれていたんだ。
 神主さまの、いつもと変わらぬほほえみ。
「あたし…、行くね」
 あたしは、ほほえんでそれだけ言うと、神社を背に駆けだした。
 行く先は決まっている。
 あたしが倒れていた場所。あの池だ。

 雨風が強くなっていた。
 あたしは池の前で、嵐に向かって立っていた。
 池の水は、大きく波打って、ごうごうとうなる川へ流れ出ていた。
「あたしは、今戻りますから。だから、もう…」
 あたしが、意を決したとき。
 そのときだ。
「葵ちゃん!」
 背中から声がした。
 信じられなかった。
 そんなはずはないって思ってた。
 でも。でも、振り向かずにはいられなかった。
「佐一さん!」
 そこには、雨でびしょ濡れになったまま、息を切らせて立っている佐一さんの姿があった。
 奇跡というものがあるのなら。きっと、これがそうなのだろう。
 もう会うことはないと思っていた。会えないと思っていた。
 乾きかけてたあたしの目に、再び涙が浮かぶ。涙は雨と混じって、濡れたあたしのほおを流れ落ちていく。
「どうしたんだ、葵ちゃん? そっちは危ないから。さあ、戻って」
 佐一さんは、あたしの方に手をさしのべ、ゆっくりと歩いてきた。
 急いでここに駆けつけたのだろう。足下は泥だらけ。髪も服も雨にびっしょり濡れている。
「佐一さん、でも…」
 でも、あたしには戻ることなんてできない。
 あたしは小さく首を横に振った。
「あたしね…」
 そして、彼の目を見つめる。言うなら今しかなかった。
「今までだまってたけど…、あたし…人間じゃ…ないんだ…」
 それは胸の奥にしまっておいた言葉。
 できることならば知られたくなかった。でも、佐一さんには知ってもらいたかった。
 矛盾しているのは分かってる。あたしはきっとこわかったんだ。
 でも、ようやくそれを話すことができた。
 話さなければならないと思ったから。やっぱり、佐一さんに嘘をついたまま別れたくないから。
 たとえ、どんな結末になろうとも…。
 でも…!
「そんなことは関係ないよ!」
 佐一さんはあたしの手をつかむと、ぐいとあたしを引き寄せた。あたしの身体が、佐一さんの胸の中に包まれる。
「関係ない。葵ちゃんは葵ちゃんだ。だから、どこにも行っちゃだめだ」
 耳元で佐一さんがそうささやいた。
 あたたかい。
 うれしかった。何よりも、その言葉がうれしかった。
 あたしは幸せだ。今なら世界中の誰に向かってでもそう言える。
 でも。だからこそ…。
 ごめんね、佐一さん…。
 あたしは無理矢理佐一さんから体を離し、じっと彼の瞳を見つめた。
「な…葵ちゃ…」
 驚いた表情のまま、佐一さんは凍り付いたようにそのまま立ちつくす。
「ありがとう。あたし、とってもうれしかったよ…」
 人魚の瞳には不思議な力がある。じっと見つめれば、その相手を動けなくすることだってできる。
 やっぱり、佐一さんを、死なせたくない。
「でもね、あたし、やっぱり行かなくちゃ」
 この雨は決してやまない。あたしが戻るまでは…。
 ふるえる涙声。
 ぎこちないほほえみ。
 でも、それがあたしの精いっぱい。
「そうだ。佐一さん、花壇に花の木の種を植えておいたの。きっと…、きれいな花が咲くから…。だから…」
 もう、そこからは声にならなかった。
 あふれる涙は止まらない。
「葵…ちゃん…」
 佐一さんの声…。
「…ありがとう…、ほんとうに、ほんとうに…」
 涙で景色がかすむ。
「会えるよ。きっとまた会えるから…」
 また会えること。それだけは、信じたかった。
 あたしはほほえんだ。最後に、ほほえみを残したかった。
 あたしは向きかえると、池に向かって走った。
「葵ちゃーーーーん!」
 佐一さんの叫び声とともに。
 あたしは、池へと飛び込んだ。
 にごった水の中を、尾びれで水をけって進む。
 目の前の水が泡立っているのは、滝壺だから。
 あたしは、そのまま滝をかけ上った。
 進む先に光が見える。
 あたしは、その中へと飛び込んだ。

 池にそそぐ滝から、一条の光が天へと昇った。
 物語は、まだ終わらない。

- 第三章 おわり -