その日もいい天気だった。でも、あたしの気分はあいかわらず完全にはすぐれない。
佐一さんとは毎日あいさつをかわすけど、それも少しむなしく感じている。
でも、その日は少し違ったようだ。
「葵ちゃん、今日の夕方ってあいてる?」
「え?」
突然のことに、私は目を丸くした。
「今日、町のお祭りがあるんだ。今までほとんどここから出たことってなかっただろう? 町を見るちょうどいい機会だと思うんだ」
「え、でも…」
佐一さんは明るく誘ってくれるけど。でも初めての誘いに、そんな簡単に返事なんてできない。
もちろん、いやなわけじゃない。でも、なんか…。
「店も今日は午後から休んでもいいって言ってくれたし。じゃあ、また夕方迎えにくるよ。それまでに準備しておいて」
「え、ええ…」
「じゃあ、また後で」
それだけ言うと、佐一さんはせわしげな朝の町へと戻っていった。
どうして? どうしてあたしを誘うのよ。
例の人誘えばいいじゃない…。
…って。やっぱり、あたし引っかかってるのかなぁ。
ふぅ…。
せっかく誘ってくれたのに、それはそれで気が重いなんてね。
仕事とかしてると、夕方なんてのはすぐにくるもので。
神主さまにお祭りのことを話したら、
「そうじゃな、いい機会だし、行ってくるとええ」
という感じで、あっさりと。
なんか拍子抜けというか。心のどこかで、神主さまがだめだといえば、行かなくていい口実になるなんていう甘い考えがあったんだと思う。
でもこうなったら、覚悟を決めるしかない(もちろんそんな大げさなことじゃないのは分かっているんだけどね…)。
うん。どうせ行くなら、少しでも楽しまないと。
あたしはそう自分に言い聞かせて、さっそく浴衣の準備をした。
これはいつの間にやら、神主さまが買ってきておいてくれたものらしい。
薄い蒼の地にいくつか薄い黄色の大きな蝶々の文様が入っている。帯はもう少し濃い柔らかな黄色。髪も同じ黄色のリボンでアップに縛って。
姿見の鏡の前でくるんと一回転してみる。
うん、なんとかさまになってるじゃない。
あたしは、鏡の中のあたしの瞳をじっと見つめた。
いい? 今日はお祭りを見に行くんだからね? それだけよ。それだけ。
両手でほおを軽くパンとたたいて。私は自分にそう言いきかせた。
うん。もう大丈夫。
期待と緊張と不安を、脱いだ着物と一緒にくるくるって丸め込んで。タンスの奥に入れようと手を伸ばした。
と、そのとき。あたしの手が、あの薄紅色の着物に触れた。
「これ…」
そう。この着物はあたしが池のほとりに倒れていたときに着ていたもの。
普段は着るわけにいかないから、こうやって奥にしまってある。
あたしは何気なくその着物を両手にとった。
そっかぁ。ここに来たのは、もう三ヶ月以上も前のことなんだ…。
そう考えると、何か懐かしいような寂しいような気持ちになる。
あたしは思わずぎゅっと着物を抱きしめた。
「…あれ?」
右手が何か堅いものに触れた。
「え、何?」
よく見ると、着物の裾のあたりに何か堅くて丸いものが縫い込んである。
急いで縫い込んだとみえて、縫い目なんかは大きさがバラバラ。
こうなると俄然興味がわいてくる。
あたしは、はさみを取り出すと、縫い糸をきって、中身を取り出した。
で…。
「これって…種…?」
ちょっと拍子抜けしちゃうな。着物の中から出てきたのは、クルミ大の、どう見ても木の実。でも、全体が焦げ茶の光沢に覆われていて。これがクルミなんかじゃないことは確かだった。ううん。あたしの知ってるどんな木の実とも違う。
でも…。
心の奥の方で何かが引っかかっていた。
あたしはこれが何か…知っている…?
それは明確な言葉にはならなかったけど、でも確かに聞こえた気がした。
何? 何なの…?
でも、どうがんばっても、ぼんやりとかすんだイメージが浮かぶだけ。思い出せそうで思い出せない。
ちょうどそのとき。
「おーい葵。 佐一くんがみえたぞ」
神主さまがむこうからあたしを呼んだ。
あ、しまった。もう時間なんだ。
「はーい、今行きまーす」
あたしはそう答えると、その木の実を裁縫箱の中にそっとしまって、そして、急いで玄関へと向かった。
「はぁ…」
あたしは目を丸くした。
だって。どっちを見ても人、人、人…。いったいどこに、こんなにもたくさんの人がいたのかって思っちゃうわよ。
広い通りの両側は、思い思いにござをしき、座り込んで品物を売る人たちでごったがえってるし。普段はこんな時間には閉まっている店々も、軒先に品物を並べては道行く人たちの目をにぎわせている。
それに、浴衣姿に着飾った人の多いこと。
おもむろに立ち止まって商品を手に取ったり。知り合い同士で話に花を咲かせたり。
こんなにたくさんの人をいっぺんに見たのは初めてだから、なんか人波に酔っちゃいそうだ。
とにかく、見るものすべてがあたしにとって初めての体験だった。
「あ、おじさん、これください」
佐一さんの声に、ぼんやりと歩いていたあたしははっと立ち止まった。
いけない、いけない。こんなところではぐれたら、本当に迷子になっちゃうわ。
見ると、佐一さんは店先の品物を手にとって主人と何か話しているようだった。
「あ、ごめん。待たせちゃって」
佐一さんは、何か小さな包みを大事そうに持ってあたしの方へ駆け寄ってきた。
「はいこれ」
そう言って、その包みをあたしに差し出す。
「え?」
あたしには何のことだか一瞬理解できなかった。もっとも、理解した後の方がさらに驚きが大きかったのだけれども。
「い、いいの?」
「開けてごらんよ」
あたしの問いかけに、佐一さんはにっこりと微笑んでそう答えた。
「うん…」
どきどきする鼓動を隠すように、あたしはうつむいたままで包みの封を開けた。
「わぁ…!」
誇張なんかじゃなく、本当にそれは光に包まれているかのように見えたんだ。包みの中から顔を出したのは、髪飾りにもなる長くて赤い組みひも。端には、ぼんぼんのような飾りがついていて、とてもかわいらしい。
「…本当にいいの?」
あたしが下から彼の顔を見上げるようにして尋ねると、彼は笑って答えた。
「もちろん。葵ちゃんってこういうの持ってなかっただろ? 本当はもっとちゃんとしたのを贈れたらいいんだけど」
「ううん。これとっても素敵よ」
あたしはあわててそう言った。
「ありがとう! 大事に使うね」
涙が出そうなくらい、嬉しかった。
あたしたち二人は、並んで川の土手を歩いていた。にぎやかな町の喧噪は、いくらか後ろのほうへと行ってしまっていた。
町の中心を横切るようにして流れている川。
この川は例の池、つまりあたしのいる神社の裏の池から流れ出している。正確に言うと、山からのわき水が滝となって池に流れ落ち、その池から細い流れとなってこの川が流れ出る。川はそのまま町を横切り、いくつかの他の川と合流しながら、いずれは海へとそそぐのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、なんだか不思議な気持ちになってきた。
あたしの記憶はまだ戻らない。自分のことが分からないと言うのはやっぱりまだ不安だ。
でも…、
とあたしは思う。
思い出せない昔も大切だけど、今こうしてこの道を歩いているあたしもとっても大切なんじゃないかって。
いつまでも過去に縛られる必要はないよね。
もし思い出せないのなら、それはそれでいいんじゃないのかな、って思える。
だって、今というのは二度とないから今なんだよ。今というのは一瞬。気を抜けば、あっという間に過去になってしまう。
やっぱりそれはとっても悲しいよね。
だからこそ、今のこの一時をもっと大切にしないと。
過去の記憶がなくても、今のこの一瞬一瞬を積み重ねていけば、きっとまたすばらしい思い出ができるんじゃないのかな。
あたしたちは月の明かりの中、無言で夜道を歩いた。
「ここだよ」
そう言って佐一さんが指し示したのは小さな木造の小屋みたいな家。
町の外れだが、まわりには同じような民家が何軒か軒を連ねていた。
「ここは?」
佐一さんが私に会わせたい人がいるというから、こうして彼の後についてきたというわけだ。行き先はあえてきかなかった。
「おいらの家さ。咲、帰ったよ」
佐一さんが、家の奥に向かって声をかける。
あたしは、さっと体をかたくした。でも…。
「おかえりなさーい」
家の中から走り出てきたのは、まだ五、六歳くらいのかわいらしい小さな女の子だった。
おかっぱにした髪に大きな目と赤いほお。赤い帯のついたかわいいだいだい色の着物を着ている。
咲と呼ばれたその子は、佐一さんの足にはしっと抱きついた。
かわいー。それに、とっても嬉しそう。
「紹介するよ。こいつが咲。おいらの妹さ」
「あ、お兄ちゃん、誰か来てるの?」
え…?
咲ちゃんのところからあたしが見えないわけではない。
「あ、気にしないで。咲は目が見えないんだ」
そう言って佐一さんは咲ちゃんの頭を優しくなでた。
「葵さんだよ。神社の神主さんのところに住んでるって話は前にしただろ?」
「こんばんは、咲ちゃん」
あたしはしゃがむと、にっこりと微笑んで咲ちゃんにあいさつをした。
咲ちゃんは、あたしのところへてててと駆け寄ると、あたしの顔を両手でぺたぺたとさわり始めた。
こうやってあたしの顔の形なんかを判断しているのだろう。
あたしは目をつむって、咲ちゃんのしたいようにさせておいた。
しばらくして、咲ちゃんはゆっくりと手を離した。
「…おねえちゃん、なんかお魚さんみたいな感じがするね」
「え…?」
あたしは絶句した。
「こら咲。そんなこと言っちゃ失礼だろ」
「あ、ごめんなさい」
咲ちゃんは素直に頭を下げた。
「い、いいのよ。別に気にしてないから」
あたしはあわててそう言った。
でも…。
なんだったんだろう? 今一瞬感じた不安感は…?
しばらく佐一さんの家におじゃました後。あたしと佐一さんは、神社へ戻るため佐一さんの家を後にした。咲ちゃんはお留守番。目が不自由なのと佐一さんが働いているのとで、ふだんも外に出ることは少ないのだという。
でも、けなげで素直で、とってもいい子だ。
「あ、でもお父さんとお母さんはどうしたの?」
神社へと戻る道すがら、あたしは何気なく佐一さんに尋ねた。
「死んじゃった。もうずいぶんと前だけど。疫病でね」
「あ、ご、ごめんなさい…」
「いいんだ」
うつむいたあたしに、佐一さんは優しく声をかけてくれた。
「でも、本当に寂しい思いをしてるのは咲だと思うんだ」
佐一さんが話を続ける。
「まだ小さいしね。なのに、おいらは働きに出てるから十分にかまってやることもできない。目だって、ちゃんとした医者に見せてなおしてやりたい。だから、今はおいらがもっとがんばらないといけないって思うんだ」
前を向いたまま、佐一さんはそう言った。
その横顔がとってもまぶしい。
「うん。佐一さんならできると思うよ」
「はは…、ありがとう」
そう言って、佐一さんはにっこり笑った。
「実はあの花もさ、いつか咲に見せてやりたいと思って育ててるんだ」
「え?」
「咲の目が見えるようになったとき、まっ先にきれいな花を見せてやりたくて。あいつ花が大好きだから」
そうだったんだ…。
「え、じゃあ、あの大事な人って…?」
「ああ、もちろん咲のことさ」
な、なぁーんだ。
ははは。なんだか、あたしってば一人でばかみたい…。
でもでも。
なーんだぁ!
なんか、思いっきり飛び跳ねたいくらい!
「あ、そうだ!」
「ん?」
「あたしがさ、暇なときに咲ちゃんのところへ遊びに行くってのはどう? いつもってわけにはいかないけど。でも、一人でいるよりは寂しくないよね?」
「いいの?」
「うん。神主さまに頼んでみる」
「そうしてくれると、とっても助かる」
佐一さんがよろこんでくれた! あたしはもうそれだけでとっても嬉しかった。
でも気付けば、いつのまにか神社の目の前。
あーあ、もうこれで今日はお別れかぁ…。
ぼんやりとそんなことを考えてたとき。
ヒュー…。ドーン! ドーン!
「あ…」
夜空に次々と大輪の花が咲いた。
「そうか、今日は花火大会もあったんだ」
佐一さんが夜空を見上げながらそうつぶやく。
「きれい…」
事実、光の花たちは夜空を赤や黄色にと、色とりどりに染めあげていった。闇の中に大きく広がって、ゆっくりと消えていく花々。
あたしたちは、しばらくその光の競演を声もなく眺めていた。
高く低く、花火は夜空に次々とはかない花を咲かせていく。
その時間は幻想的で、そしてとっても神聖なものだった。
こんな時間がずっと続けばいいのに…。
あたしは、真剣にそう思った。
でも、そうはならなかった。
ごご…。
え?
低い地鳴り。そして胸一杯の不安感。それが前兆だった。
「きゃっ!」
突然、激しい揺れがあたしたちをおそった。
佐一さんがとっさにあたしをだきとめてくれて。でも。
こわい…!
あたしは佐一さんにしがみついてまま、ぎゅっと目をつむった。
激しい揺れは、数分間続き、ようやく収まった。
「大丈夫?」
佐一さんが、あたしの顔をのぞきこんでいるのは分かったけど。
「う、うん…」
それだけ答えるのが精一杯。
何? この感じ?
ものすごい不安感。さっきと同じだ。心臓がどきどきしている。
あたしは大きく深呼吸をして、顔を上げた。
「もう大丈夫よ。びっくりしただけだから」
「上まで送ろうか?」
「ううん。もう平気だから。ありがとう」
そう言って微笑むと、あたしは神社への階段を駆け上がった。
なぜだか、これ以上動揺を見せたくなかったんだ。
石の階段を上っていくにつれ、ようやく気分も落ちついてきた。
なんだったんだろう? 気のせいならいいんだけど…。
あたしはぼんやりとそんなことを考えながら、階段を上った。
神社に戻って神主さまにあいさつと報告をすませると、あたしは自分の部屋へ戻った。
今日は祭りを見に町へ出ていた分、もう少し仕事が残っている。
浴衣を脱いでいつもの巫女服を着る。
そして、包みから佐一さんにもらった赤い組みひもを取り出し、髪を縛ると、姿見の前でくるりと回ってみた。
うふふ。
うん、ばっちり!
自然と口もとがゆるみ。心の中がさっと晴れ上がっていく感じ。
あたしは何度も何度も鏡の前で回ってみた。
そして、ふと目が脇に置いてある裁縫箱に止まる。
そうだ!
あたしはいいことを思いついた。
残っていた仕事を急いで片付けると、あたしは着替える時間も惜しんで、あの池のところへやってきた。
夜も更けてはいたけど、まあるいお月さまのおかげで思ったよりも明るい。
そのおかげで、あたしは迷うことなく、いつも佐一さんが花を育てている花壇のところへ行くことができた。
花壇にはあいかわらずたくさんの草花が生けてあった。
でも、月の光の中だと、みんな眠っているみたいね。
あたしは花壇の隣にしゃがみ込んだ。
あたしの手には、あの例の木の実。
柔らかな地面を掘ると、そっとその木の実を埋めた。
何が生えてくるのか、あたしは知らない。でもなぜだか、ぜったいきれいな花が咲くんだって確信があった。
佐一さん、これ見たらなんて言うだろうなぁ…。
あたしは微笑みながらそんなことを考えた。
よろこんでくれるといいな。
軽く地面をぱんぱんとたたいて、あたしは立ち上がった。
とってもとっても嬉しかった。
「ふふふ」
池には満月が映っていてとってもきれいだ。
だから、池の縁の大きな石の上で、まわりながら踊ってみる。
こうしていると、月の光を独り占めしているみたい。
まんまるなお月さまを見上げて大きくのびをする。
なんでだろう! こんなに嬉しいのは。
澄んだ夜の大気が全身にしみわたるみたい。
あたしは、さらにぐっと両手をのばした。
「あ…、わわわ…、きゃっ!」
その瞬間、バランスを崩して。
バシャーン!
あたしはみごとに池の中に落ちてしまった。
「つめたーい」
水面から顔を出して、あたしはぷるぷると水滴をはじきとばした。
あは。ちょっと調子にのりすぎたかな…?
あたしは岸に上がろうとした。
え…?
そう。あたしが異変に気付いたのはそのときだった。
うそ…。
あたしは自分自身が信じられなかった。
その夜、あたしは薄暗い部屋の中で一人、眠れぬままひざを抱えていた。
そう、今はあるこのひざを。
思い出すだけで、体にぶるっと震えがはしる。
あたしは、両足をきゅっと抱え込んだ。
でもあのときは…。
そう、あのときのあたしには、ひざなんてものはなかった。
いや、足というものがなかったと言っていい。
そのかわりにあったのは…。
青緑色の鱗に覆われた流線型の下半身。そしてその先に広がる半透明の尾びれ。
それは紛れもなく魚そのもの。
人魚、という言葉があたしの脳裏に浮かぶ。
でも、どうして…? どうしてあたしが…?
幸いにも、池から上がると同時に、あたしの下半身は元に戻った。
でも、だからといって、あたしの気分が元に戻るわけではない。
池からどうやって神社の自分の部屋まで戻ってきたのかは覚えていない。
気付いたら、部屋でこうしてひざを抱えていた。
「…おねえちゃん、なんかお魚さんみたいな感じがするね」
咲ちゃんの言葉が頭の中に浮かぶ。
目の見えない咲ちゃんには分かっていたのかもしれない。
そう。あたしが人間じゃないってことが…。
でも、でも、どうしてよぉ…? 何も、あたしじゃなくったっていいじゃない…。
ひざにうずめたほおに、涙が流れ落ちる。
夜はまだ明けない…。
その晩遅く、いつの間か雲で覆われた夜空から、しとしとと雨が降り始めた。
雨足はやがて強まり、窓の外から他のすべての音を消した。
そしてその雨は、それ以後、決してやむことがなかったのである。
- 第二章 おわり -