池のほとりに咲いた花

~ 第四章 : 「花」 ~

「ようやく戻ったか」
 その太い声に、ひざまずいていたあたしは顔を上げた。
 ここは大きな宮殿の広いロビー。床や太い柱は、全部まっ白な大理石で。まるで、ここではすべてが光に包まれているみたいだ。
 見上げたあたしの前にいるのは、巨大なイスに座った黒ひげの大きなおじさん。
 ううん。おじさんなんて言っちゃいけないよね。
 この人こそが龍神さま。
 そして、あの雨を降らせた張本人でもある。もっとも、それはあたしのせいでもあるんだけど…。
 ここは天上界の龍神さまの御殿。
 あたしはひとりこの広いロビーで龍神さまと向かい合っていた。
「すみませんでした。勝手なことをして。でも、あたしはもう戻りました。だから…」
「分かっておる。もう雨は止んだ。心配することはない」
 あたしの言葉を遮るようにして、龍神さまはそう言った。
 龍神さまはすべてをお見通しのようだった。
 あたしは恥ずかしくなって、うつむいた。
 そんなあたしに龍神さまが尋ねた。
「アオイよ、おまえは自分のしたことを後悔しているか?」
 あたしは、さっと顔を上げ、胸をはって答えた。
「いいえ。後悔なんかしていません」
 そして、まっすぐに龍神さまの目を見つめる。
 龍神さまは軽く笑ったようだった。
「ならよい。持ち場に戻っていいぞ」
 退出しようとしたあたしに、だが、龍神さまが声をかけた。
「そうじゃ、アオイ」
 振り返るあたし。
「また近いうちに、地上へ誰かを派遣することになる。もし、また地上へ行きたいのなら、修練しておくことだ」
 下界へと降りる任務は、宮殿にいる大勢の人魚の中から、もっとも優秀だった者が選ばれる。
「は、はいっ!」
 あたしは、嬉々として答えた。

 宮殿を後にしたあたしは、宮殿の裏にあるまっすぐな緑の並木道を歩いた。
 しばらく行くと、まわりをまばらな立木に囲まれた池に出る。
 池のまわりを囲む樹々は天上桜の樹。
 この風景はあの日と変わらない。
 あたしは池をのぞき込んだ。
 透明な水を通して、そこには下界の見慣れた風景が広がっている。
 そう。懐かしいあの池だ…。
 記憶がフラッシュバックした。


 今でも思い出すことができる。
 それは下界での任務から戻ってしばらくした頃だった。
 あたしはこの池が大好きだった。
 暇になればいつもここへきて、下界の様子をながめていた。
 この池は、下界と天上界をつなぐ通路のような役目を果たしているから、下界の様子も少しは分かる。
 もっとも、この池から見えるのは、下界のあの池のあたりだけだったけど。
 でも、下界の四季の移り変わりは、常春の天上界にいるあたしの目には、とっても新鮮だった。
 そんなあたしが、初めて彼を見たのはいったいいつだったろうか?
 彼は足繁く池のほとりへと通っていた。
 そんな姿を見るうちに。しだいに、彼がいったい何をしているのか、興味がわいてきた。
 彼が何をしているのかはなかなか分からなかったけど。でも、ある日、彼が花を育てていることに気付いたんだ。
 池のほとりに咲く可憐な花々。
 そのときのあたしの驚きと感動!
 そして、あたしは、自分がどうしようもないくらいに彼にひかれているのを知ったんだ。
 彼に会いたい…。
 そんな想いが、日増しに強くなっていく。
 会いたい。でも、会えない…。
 必要なのはきっかけだけだった。
 ある日、池のほとりにたたずんでいたあたしの頭に、天上桜のことが浮かんだ。
 この樹は、天上界では数百年に一度しか花を咲かせないという。だが、その花はこの天上界でもっとも美しいものの一つとして知られている。
 彼にこの花を見せてあげたい。
 急にそんな想いがわいてきた。
 たしか、天上桜の木の種が宮殿の宝物庫にあったはずよね…。
 天上桜は滅多に花を咲かせないため、その種も非常に貴重とされている。
 でも、あたしなら…。

 実行に移したのはその日の夜だった。
 宝物庫からこっそりと種を盗み出したあたしは、急いで種を着物の裾に縫いつけると、池へとむかった。
 みんなに気付かれるのは時間の問題だった。
「急がなきゃ…」
 心臓が破裂しそうなくらいどきどきする。
 はちきれそうな不安。
 はやる気持ちを押さえながら、あたしは闇の中、池への道をひた走った。
 そしてあたしは、池の中へと飛び込んだ。


 そしてあたしは再び池のほとりにいる。
「佐一さん…」
 あたしのつぶやきは、はたして彼に伝わっただろうか?

 あたしはその後も、修練の合間をぬっては、たびたびこの池を訪れた。
 佐一さんの姿が見えるときも見えないときもあったけど。
 でも、彼の姿はいつもあたしを元気付けてくれた。
 けれど。その彼の姿にときおり感じる違和感…。
 はじめは気のせいかなと思っていたけど。
 それは、時がたつごとに少しずつ大きくなっていったんだ。


 そして、三ヶ月ほどたったある日。
「え…」
 あたしは信じられない光景に出会った。
 礼服に身を包んだ佐一さん。そしてその隣には、白無垢の花嫁衣装をまとった女の人。
 池から見える風景の中に、そんな幸せそうな二人の姿があった。
「そんな…」
 あたしには、その光景が信じられなかった。
 いや。信じたくなかったんだ。
 でも。だからだろうか。
 何かがおかしい…。
 頭の片隅でそんな声が聞こえた気がした。
 ううん。気のせいなんかじゃない。
 それはとっても大事なことのような気がした。思い出さなければならないことだ。
 でも何…?
 あたしの頭の中を、これまでのできごとがめまぐるしく駆けめぐる。そして…。
 あ…!
 その瞬間、あたしはすべてを思い出した。
 あの花嫁姿の女の子は、咲ちゃんだ!
 そして、これまでに感じていた違和感のすべてを理解した。
 そう。もっと早く気付いていてもよかったんだ。
 天上界と地上では、時間の進む速さがまったく違う。
 昔の面影を残しつつも、咲ちゃんは見違えるほど美しく成長していた。
 佐一さんと咲ちゃんは、きっとあたしに報告するためにこの池を訪れたのだろう。
「よかったね、咲ちゃん…」
 ここから見る限り、咲ちゃんの目は完全によくなっているようだった。
 その事実に少し心は軽くなったけど。
 いつの間にか佐一さんの顔にふえたしわ…。
 それは、あたしと佐一さんの間の時間の隔たりをはっきりと示していた。
 あたしが天上界で三ヶ月を過ごす間に、地上では十年以上がたっていた。
 ならば時間は、もう残り少ない。

 その日からあたしは、毎日必死に天上界での修練をこなした。
 再び佐一さんに会うため。
 少しでも希望があるのなら。あたしは決してあきらめない!


 毎日毎日流れていく、もどかしく歯がゆい時間。
 そんな時間の積み重ねが、ついに一年ほどの時を刻もうという頃。
 もう間に合わないかもしれないという思いを、必死に押し殺していた頃。
 待ちに待った日は、ある日突然やってきた。
 龍神さまによって、地上へ派遣される者の名前が発表された。
 それは…あたし!
 不安がなかったわけじゃない。
 でも、やれることは全部やった。
 だから、喜びよりも期待の方が大きかった。
 やっと佐一さんに会える…。
 間に合うかどうかは分からない。
 でも、そんなことは考えたくなかった。
 もう、一刻も無駄にすることはできない。
 あたしは、気もそぞろに準備をすませると、すぐさま地上へと旅立った。

 しゅぅぅー…。
 あたしのまわりの光が、急速に拡散していく。
 心持ち冷たい風。ふわりとした着地感とともに、ふいに目の前に見慣れた風景が広がった。
 夜空には大きな満月がかかり、すべての景色を淡く白く染め上げていた。
 おだやかに水をたたえた大きな池。そして、そのまわりに広がる緑の草原。
 まわりを囲む山々にはまだ枯れ木が目立ち。季節はようやく厳しい冬から春へとその装いを新たにしようとしていた。
 けど、まずあたしの目に飛び込んだのは樹だった。月明かりの中に浮かび上がった、一本の大樹。葉も花もない太い枝々が、天に向かって大きく開いている。
 そして、その根元に腰を下ろした人影。
「…ぁ…」
 その瞬間、あたしの口から声にならない息がもれた。
 あたしには、それが誰だか分かったから。
 ゆっくりと足を踏み出す。
 とくん…
 脈を打つ心臓。胸がきゅっと締め上げられるような感覚とともに。鼓動が次第にはやくなっていく。
 冷たい固まりが、のどの奥へと落ちていく。
 あたしの足が、一歩、そしてまた一歩と若草を踏みしめていく。
 今のあたしの耳に聞こえるのは、ただ心臓の鼓動だけ。
 大樹の根元に腰を下ろしているのは、一人の老人だった。髪はもう完全に白い。幹に体をもたれかけさせたまま、目を閉じ、ぴくりとも動かない。
 う、うそよね…?
 走り出したかった。でも、全身の感覚が麻痺したみたいに、あたしの体はいうことをきかない。ただ、重い足取りで一歩ずつ進むだけ。
 ようやく、あたしは彼の前に立った。
 信じたくなかった。でも…。
 体がこの現実を受けいれるのをようやく認めたかのように。自然と瞳に涙があふれてきた。
 ごめんなさい…。
 あたしは、ゆっくりと地面にひざをついた。
「佐一さん!」
 あたしはそう叫んで、彼の首にしがみついた。

「…う…ん…」
 あたしの腕の中で。そう。かすかな身じろぎ。
 あぁ…。
 奇跡が…、奇跡がもう一度起ころうとしていた。
「…佐一さん…」
 あたしの腕の中で、佐一さんがゆっくりと目を開けた。
 よかった…。
 間に合わなかったのかと思ってた。もう遅すぎたのかと思ってた。
 でも…!
 ぽろぽろと涙がこぼれる。
「佐一さん!」
 よかった。本当に…。
「あ…葵ちゃん…? 本当に…?」
「ごめんなさい、佐一さん。遅くなって…」
 佐一さんも目を丸くしてあたしの顔を見たけど。あたしが涙に濡れた顔でにっこりとほほえむと、懐かしいあの優しい笑顔でほほえみ返してくれた。
「いいんだよ。わたしは幸せ者だ。またこうして葵ちゃんに会えたんだから…」
 そして、佐一さんはあたしにいろんな話をしてくれた。咲ちゃんのこと。神主さまのこと。そして…。
 あたしは、佐一さんの話を聞きながら、何度もうなずいた。
 二人の間の時間がゆっくりとうまっていくみたいだった。
「今ではわたしだけになってしまったけど…。この木を育てながら、ずっと待ってた。あきらめかけたこともあったよ。でも、あきらめないでよかった」
 そう言って、佐一さんは頭上の樹を見上げた。そして…。
「おかえり。葵ちゃん」
 その笑顔がとってもすてきで。
「ただいま。佐一さん」
 あたしは、涙をぬぐって、佐一さんにほほえみ返した。
「そういえばあたし、まだ佐一さんとの約束果たしてないよね」
 あたしの言葉に、佐一さんが不思議そうな顔をする。
「この樹、きれいな花が咲くって言ったでしょ? でもまだ佐一さんに見せてあげてないよね」
 そう言ってあたしは立ち上がると、天上桜の大樹の幹に右手をそっとおいた。
 お願い…花よ…。
 目を閉じて祈る。すべてのエネルギーを注ぐ。
 お願い…。
 手の先から熱い鼓動が伝わる。
「おぉ…」
 佐一さんの声に、あたしは目を開けて樹をあおぎ見た。
 無数の枝の先で小さなつぼみがいっせいにふくらみ。つぼみはやがてほころびはじめ、次々と開花していく。池のほとりの天上桜の樹が、まるで薄紅色の衣をまとうかのように、雄壮なその姿を変えていく。
 薄紅色の花が競うように咲き誇り。やがて大樹は重なり合う花々にすべて覆われた。
 夜空に浮かんだ満月を背景に、樹全体がまるで一つの花であるかのようにぼぅっと浮かび上がった。その姿は幻想的で、悲しいほど美しかった。
「きれい…」
 あたしはうっとりとつぶやいた。
 彼と一緒にこの光景を見ることを、あたしはいったい何度夢見たことだろう…。
「あぁ、きれいだ…。葵ちゃん、ありがとう…」
 桜の樹を、そしてあたしを見上げたまま、佐一さんは目を細めた。
「ありがとう。やっぱりわたしは幸せ者だよ。もうこれで思い残すことはない…」
 その瞬間、砂時計の最後の砂の一粒が落ちた…。
「佐一…さん…?」
 短かった奇跡が、今、幕を閉じようとしている。
「う…うそ…よね?」
 けれど。佐一さんの目はもう開かない。
 あたしには、まだその現実が信じられなかった。
 佐一さんがまたすぐに目を開けてくれるような気がしていた。
 あたしは再びしゃがみ込んだ。
 佐一さんの肩をゆっくりと、そして、しだいに激しく揺さぶる。
 でも。でも佐一さんは、もう目を開けてくれない。もう何も言ってはくれない…。
 その事実を認識したとき。
 あたしの中で何かがはじけた。
 あたしは佐一さんの身体を抱きしめ、その胸の中で大声で泣いた。

 どれくらいの時間がたったのだろう?
 ようやくあたしは顔を上げた。
 穏やかな佐一さんの顔。まるで今にも目を覚ましそう。
 あたしは手の甲で涙をぬぐった。
 ありがとう、佐一さん…。
 そう。最後はごめんなさいではなく、ありがとうと言いたい。
 あたしに貴重な時間をくれた大切な人…。
 月の光の中で、佐一さんの顔がほほえんだような気がしたから。あたしもにっこりとほほえみ返した。
 佐一さん、あたし行くね…。
 あたしはゆっくりと立ち上がった。
 そして、そのまま後ろへと下がり。佐一さんと天上桜のすべてを視界に入れる。
 そう。これはあたしから佐一さんへの最後の贈り物だ…。
 あたしは、右の手を天高くかかげた。
 一陣の風が吹く。
 天よ…。あたしの最後のお願いです…。
 あたしのまわりで、風がゆっくりと渦を巻き。そして、しだいに強くなっていく。
 風に一枚、また一枚と桜の花が踊る。
 やがて、無数の花びらが風の中に舞い…。そして、帯となる。
 薄紅色の桜の花びらが、やがてゆっくりゆっくりと舞い落ち。樹の根元に腰を下ろした佐一さんの上に降り積もっていく。
 無数の淡い光の乱舞。花たちの奏でる最後の音楽。
 まるで、ここまで育て上げてくれたお礼をするかのように。
 花はやむことなく降り続けた。
 さようなら。そして、ありがとう…。
 佐一さんの姿が完全に見えなくなっても、あたしはずっとそこに立ちつくしていた。
 月が二人を照らす中。
 桜の花が、静かに舞い落ちた。

- 第四章 おわり -