闇の中、その少女は息を切らしながら、必死に走っていた。
「急がなきゃ…」
そして水の中へ飛び込む。
時は応永四年。ある山間の小さな町で、その物語は静かに幕を開ける。
暗闇の中で、突然まぶしい光が二度、三度と瞬いた。とたん、体がぐらりと傾き、世界がぐるんと回転した。ふわりと落ちていくような不思議な感覚。そのまま、あたしは何か柔らかく暖かいものの中に受け止められていた。
「…!」
遠くから、誰かの声が聞こえたような気がして。
そちらに意識を向けると、声は次第にはっきりとしてきた。
「…か! おい、大丈夫か!」
あたしはゆっくりと目を開いた。いっせいに視界の中に流れ込んでくる光がまぶしい。
逆光でよくは分からなかったけど、細めたあたしの目の中には、心配そうな、それでいてほっとしたような若い男の人の顔が映っていた。
- あたしの時間はここから始まる。
「え、…あ…」
頭の中に霧がかかっているみたい。
まわりを囲む木々。その中にある、薄緑の若草に縁取られた大きな池。そして、その池へと注ぎ込む、巨大な滝。草原には黄色い小さな花がたくさん咲いているところもあって。池のまわりは柔らかい色彩に包まれている。
そんな景色が目に入る。
あたりには岩肌の厳しい山々が押し迫って、ここが山間の土地であることを認識したとき。
「え、どこ、ここ…?」
我に返って、私はばっと跳ね起きた。
ちょっと。何? わけわかんないよぉ。
頭の中が混乱してる。いったい何が起こったっていうの?
「あ…」
ふと隣を見ると、さっきの彼が目を丸くしてこっちを見ていた。
は、はずかしー。
自分でも顔がぽっと赤くなるのが分かる。
「えっと、あ、ごめんなさい。なんかよく分かんなくって…。ありがとう。あ、あなたの名前は?」
がんばって気分を落ちつかせて、なんとかあたしが尋ねると、彼もようやく我に返ったようで。目をぱちくりさせながら。
「あぁ、おいらの名前は、佐一。きみは?」
「あたしは…」
心臓がとくんと脈を打つ。
…え。う、うそ。うそでしょ…?
再び心臓がばくばくと鼓動しはじめる。
「…わ、分かんない…」
あたしは、そう言うのが精一杯。
地面がぐらぐら揺れて、なんだかもう一回、暗やみの中に落ち込んでいくみたいな気分だった。
シャッ、シャッ、シャッ…
石畳を掃く竹箒の小気味よい音が、まだ太陽が昇りきったばかりの空にこだまする。
まだ少し寒いくらいの、でもとっても爽快な朝。
チチチ…とさえずりながら枝から枝へと小鳥が飛んでいく。
「ふぅ…」
あたしは竹箒を動かす手を休めて、額の汗を拭った。
晴れ渡った青空がまぶしい。
うーん、いい天気! 今日も元気が出てくるぅ!
あたしは天に向かって思いきり伸びをした。
ここは、あの池のすぐ近くにある神社。
彼(佐一さんのことね)の提案で、あの後、とりあえずこの神社まで来たのだ。
結局、あたしは自分の名前だけでなく、佐一さんに発見されるまでのことをすべて思い出せなかった。
悲しくって悲しくって、呆然としてたんだと思う。
想像したことある? これって、不安なだけじゃなくて結構寂しいんだよ。
だって、自分が誰かってのが分かんないだけじゃなくって、自分の中にあったであろうこれまでの思い出なんかもみんな思い出せないんだから。
だから、すっごく落ち込んでね。
自分で泣き出さなかったのが不思議なくらい。
ううん。きっと泣く気力もなかったんだと思う。
そんな状態のあたしを見かねたのか、彼がとりあえず行こうって言ってくれたのがこの神社。
別にたいして期待してたわけじゃないけど。
でもね、でもね。ここの神主さまがとってもいい人で。
白いあご髭につるつるの頭の、いかにもおじいさんって感じの小柄な人なんだけど。
あたしの事情を説明すると、
「それは大変じゃったろう。ああ、行くところがないんなら、ここにいていいから。まあ、焦らずじっくりと取り組めば、きっとそのうち思い出せるじゃろうて」
ね! 見ず知らずの人間になかなか言えないよね、こんなこと。
しかも。
「名前がないと呼びにくいからのう。そうじゃ、とりあえず葵って名前はどうじゃ? 本当の名前を思い出すまでの仮の名前じゃが。一応この神社に伝わる由緒正しい名前じゃしの」
って、名前を思い出せないあたしに名前まで付けてくれた!
葵かぁ…。
いい響きだよね。
もちろん、あたしはすかさず承諾した。
佐一さんといい、神主さまといい。こうやって親切にしてもらうと、なんかこう、がんばってみようって気になってくるじゃない?
あ、あと、神主さまが葵って名前を由緒正しいって言ったのは、ちゃんと理由があってね。説明すると、この神社、祭ってるのは龍神さまなの。あの滝をのぼった池の鯉が龍になったっていう伝説があって。もっとも、こういう伝説は結構どこにでもあるものだけど。で、その龍神さまの使いとして、かつてこの土地に降りたった少女の名前が葵って言うらしいの。
…いいのかな、そんなたいそうな名前つけてもらって?
最初名前の由来を聞いたときには、おそれおおくてちょっと不安だったけど。でも、結構しっくりきてて、あたしは気に入ってる。
もしかして本当に葵っていう名前だったりしてね?
ということで、今はこの神社に住み込みで働かせてもらってる。さすがに、何もしないっていうわけにもいかないし。かといって、これといった特技があるわけでもない。
とりあえずは、この神社の巫女役として雑用をすることにした。というか、それくらいしかできない。
境内を掃除するのが、毎朝のあたしの役目。
で、白と赤の巫女の衣装で今朝も掃除をしていた、というわけだ。
「おはよう!」
今朝も石段を息を切らせて駆け上がってきたのは佐一さんだ。
彼の背はけっこう高い。もっともあたしが小さいだけなのかもしんないけど。だから、あいさつの時はあたしが見上げる格好になる。
短く刈った髪に穏和そうな小さな瞳。いつもと変わらないちょっとたて長の丸顔。
「おはよう!」
あたしもあいさつを返す。
佐一さんはあれから毎朝この神社に来てくれている。
あたしにとって、ここでの知り合いは神主さまと佐一さんだけだから(そうそう、ここの神主さま、今までずっと一人で住んでたんだって)、彼の顔を見るとなんだかほっとする。
「じゃあ」
でも、彼は二言三言会話した後、いつも神社の裏から池のほうへ行ってしまう。
何しに行くんだろ?
あの池って、あたしが倒れてたとこでしょ?
だからなんとなく気になる。
彼、佐一さんが言うには、あの日、彼が池のところに来たら、池のほとりにあたしが倒れてたんだって。
きっとその日もいつもみたいに池のところに行ってたのかな?
で、あたしはどうやら軽い記憶喪失にかかっているらしく。あたしにはよく分からなかったけど、あたしの着ていた薄紅色の着物は上質の絹でできているそうで。そんないい着物を着れる人なら、簡単に身元も分かるだろうって。
でも、あの池のところで何してんだろ?
前に一回きいたけど、「なんでもないよ」って教えてくれなかったし。
後をこっそりとつけるってのも、なんか彼に悪い気がして…。
その後、しばらくすると彼はこの階段のところを通って急いで麓の町に帰っていく。
彼もお店に行かなきゃなんないものね。
あ、そうそう、彼のことまだほとんど紹介してなかったんだっけ。
彼はこの山の麓の町にある呉服店で働いているそうだ。だから、あたしの着物のこともすぐに分かったんだよね。
でもあの着物、そんなよさそうなのには見えないけど。素人目じゃ分かんないのかな?
もしかしたら、あたしを落ちつかせるために嘘をついてくれたのかもしれない。その本心のとこまでは分かんないけど。でも、佐一さんって優しいよね。
普通だったら、ほっといたっていいくらいだもん。全くの見知らぬ他人なんだし。
「ん?」
そこであたしはふと気が付いた。
ってことは、彼がこの神社に来てくれるのって、あたしがいるからじゃなくて、ただ単に池のところへ行く途中だからってこと?
…うぅ、否定できない…。
パキッ…
あちゃ…
足下で小枝が小さな音を立てる。あたしはじっと動きをとめて、木の陰から彼を見た。さいわい、まだ気付かれてはいないみたい。
え、何してるのかって? そりゃ、あんた…。
あれから数日後なんだけど。結局、やっぱり佐一さんが池のところで何してるか気になってね。今日こそはって、こっそり後をつけてみたんだ。
分かんないことを気にしながら毎日過ごすのって、体に悪そうじゃない? 寝つきも悪くなるし。
うん。やっぱり、ストレスたまるよ。こういうのは、はっきりさせとかなきゃ。
ね?
というわけでね、彼の後をこっそりとつけながら、ようやく池のほとりまでたどりついたところなの。
おろ?
何だろ。彼、木陰にかがみ込んで何かしてる。
ちょうどこっちからは彼の体がじゃまで見えない。
うー。何だろ? 気になるぅ。
あたしがやきもきしているなんて(当然)知らずに、彼はしばらくそこで何かをしていた。
ようやく彼が立ち上がったとき、目を皿のようにしてそこを見たけど。
でも、そこには黄色い花が咲いているだけ。
やっぱり何をしていたのかは分からない。
あ、やばっ…
あんまり顔を出してたから、もう少しで帰ってくる彼に見つかりそうになった。
ふぅ、危ない、危ない。
あたしは出てもいない額の汗をぬぐうと、その場所でそのまま彼をやり過ごした。
今日は、帰り際にあたしがいつものところにいないのを不審がるかな? でも、ま、分かんないよね?
とりあえず、佐一さんが十分向こうに行ってしまうまで待つことにした。突然帰ってくるかもしれないし。用心、用心。
もう大丈夫だろう、ってくらいまで待ってから、あたしは例の木の下へ駆け寄った
「え、うそ…!」
そこで、あたしは思わず声を上げた。
だって。
木の下に咲いていた黄色い花。今の今まで、あれは勝手に咲いているんだとばかり思ってた。何の疑いも持たずに。
でも、そうじゃなかったんだ!
この花は、全部人の手で育てられたもの。地面はきれいにならされ、雑草も丁寧にとってある。
そんな区画の中に、黄色い小さな花がきれいに一列に並んで咲いていた。
佐一さんが植えたんだと思う。ていうか、他には考えられない。
「でもどうして…?」
でも、目の前の花が答えてくれるはずもなく。
うーむ。謎は深まるばかり、か…。
「神主さま、佐一さんって花が好きなんですか?」
縁側の縁にちょこっと腰をかけて、部屋の中にいる神主さまに声をかける。
いくらあたしが考えても謎が解けるわけもなく。さっそく神主さまの知恵を借りることにした。
「ん?」
部屋の中で何か書き物をしていたらしい神主さまが、手を休めてこっちを向く。
「なんでそんなこときくんじゃ?」
あ、しまった。まさか、彼の後つけてました、なんて言えるわけないし…。
「え、いや、なんかそんな気がして…」
でも、神主さまはほっほっと笑って。
「さては、後でもつけたのかい? まあ、これはわしの口からよりは直接聞いたほうがよいことじゃからの」
ちょっとぉ。そんなこと言われるとよけいに気になるじゃないの!
その日も私は、木陰から池のほとりをのぞいていた。
やっぱり、どうしても気になってしょうがない。
それで、今朝はいつもよりもずっと近いところからのぞくことにした。
背中越しに彼の手の動きなんかもよく分かる。水をやったり、雑草を引き抜いたり。すごくかいがいしく花の世話をしている。
何かちょっと妬けるな…。
って、何言ってるんだろ。あたしが言う台詞じゃないよね。
そう思って、木陰から思い切り顔をのばしたときだ。
ずるっ。
「へ?」
べちゃっ!
木の根の皮に足を滑らせて、あたしはつんのめるようにして、顔面から地面に倒れ込んだ。
「あたたた…」
髪についた枯れ草をはらいながら立ち上がると。
ちょうど、こっちを振り返った佐一さんと目があった。
「お、おはよう…」
声はかけたものの。彼は目を丸くしている。
あちゃー。き、気まずい…。
でも。
「おはよう」
彼は笑ってあいさつを返してくれた。
その微笑みに救われた気分。
あたしは照れくさそうに彼の隣まで歩いていった。
「花、育ててるんだ?」
「ああ。…まいったなぁ。恥ずかしかったから、内緒にしてたのに」
はにかみながらそう答えて、彼は作業を再開した。
彼の隣に並んでしゃがみ込む。
「きれいな花だね」
事実、小さな花たちは、朝露を浴びて光り輝いていた。
みんな太陽の光を浴びてとっても気持ちよさそう。
「でも、どうして花を育ててるの?」
あたしは、ずっとききたかったことを思い切って尋ねてみた。
「うーん、そうだなぁ」
佐一さんは照れくさそうに鼻の下をこすると。
「大事な人のため、かな?」
そう答えた笑顔がすっごく輝いてて。いつにもまして素敵で。
でも、なぜか分からないけど、それがとっても悲しくもあった。
…ふーん。大事な人、いるんだ…。
佐一さんはそれからも毎日池のほとりに通っていた。
あの黄色いのだけじゃなく、いろんな種類の花を育てているようで。季節の移ろいにあわせて、花はその装いを変えていった。いや、夏へ向かって彩りを増していったと言った方がいいのかもしれない。
そんなこんなが三ヶ月ほど続いて。
夏も終わりに近づいた頃。
運命のその日がやってきた。
- 第一章 おわり -