しばらく前に、映像を10分程度にまとめた「ファスト映画」が話題となった(もちろん、著作権者に無断でやったら違法である)。また、ドラマやアニメ等の映像を「倍速視聴」や「飛ばし見」することも、若い世代の間では決して珍しいことではない。音楽にしても、長いイントロやギターソロ等は、飛ばされたり敬遠されたりもする。
これらの目的は時間効率化(タイムパフォーマンスというらしい)であり、より短時間でより多くの情報を取り入れるための行為である。友人とのコミュニケーションのために、効率的に共通情報を取得することを重要視しているのだろう。しかし、特定の情報の収集に効率化したことで得られるものは、それ以外を切り捨てることで効率化を図るため、あくまでその情報にとどまる。
時間効率化の弊害については、既に様々なところで述べられている。
単にあらすじを追うだけならば、時間効率的な視聴でもよいのだろう。ただ、それは作品を理解したことにはならない。例えば、映像作品における「間」のようなものは、「ファスト映画」や「倍速視聴」等では真っ先に切り捨てられる。しかし、作り手は、単に台詞だけで作品を構築するのではなく、台詞のない(場合によっては動きすらない)場面も重要な要素としている。それらの、テキストベースには落としきれない情報は、だからこそ作品により深みを与えている。それは、作品の持つ空気感と言ってもよい。時間効率的な視聴では、本来作品から得られるはずであった、そういった非言語的なものの多くが取りこぼされてしまう。つまり、叙事的なものは得られても、叙情的なものは得られにくい。
学校の試験や入試でよい成績をとるだけならば、テキストベースの情報だけで事足りるのかもしれない。しかし、場の空気を読む(流される)だけではない、他者との相互理解のためのコミュニケーションには、他人は自分とは異なる存在であることを理解し尊重する想像力が必要である。そして、想像力は多分に非言語的で叙情的な素地に依っている。非言語的で叙情的な素地は、非言語的で叙情的なものから育む他はない。
以前に「便利な言葉」で述べたが、浅い言葉では浅いコミュニケーションしか実現できない。逆に、浅いコミュニケーションしかできなければ、浅い言葉しか身に付かない。豊かな言葉は、豊かな非言語的背景に支えられている。私は、言語そのものが文化だとは思わないが、言葉は文化を育む土壌(の一つ)だとは考えている。貧弱な言葉という土壌の上では、豊かな文化は育たない。コミュニケーションために効率化を求めた先が、コミュニケーションや文化の貧しさであるのならば、いったい何のための効率化なのであろうか。
人の持つ非言語的で叙情的な素地は、醸成に多大な時間がかかる。便利で忙しい現代においては、意識しなければ育てることすら難しい。決して「倍速」では身につけられないのである。
了