言語

 言葉というのは便利なものです。
 他の人とコミュニケーションを取る方法は、言葉以外にもいろいろあるのですが、細かいニュアンスを伝えるのには、結局のところ、言葉が便利だなと思うのです。
 もちろん、言葉で伝えることができる内容に限界があることは分かっています。表情や態度など言葉以外で伝えられる内容もあります。しかし、今日に至るまで人類は、総合的に見て、言葉以上の便利な手段を見つける(獲得する)ことはできていません。
 言葉には、話し言葉だけでなく、書き言葉である文字も含まれます。そして、言葉は、言語という枠組みによってそれぞれ規定されています。長い年月をかけて、世界各地で様々な言語が誕生・拡散・消滅し、現在のように状況になっているのです。
 これは、言語に様々なバリエーションという豊かさをもたらした一方で、異なる言語を操る人同士でのコミュニケーションを困難にしたという面も持っています。海外へ行った時など、「翻訳こんにゃく」があったらいいなと思ったことがあるのは、私だけではないでしょう。
 言葉はコミュニケーションのための便利な道具です。しかし、それ以上でも以下でもありません。コミュニケーションを取りたい相手との間で、それぞれの思惑はありますが、互いにとって最も適当な言語を選択するのが合理的です。これは、1対1の場合だけでなく、1対多数の場合でも同様です。
 人はそれぞれ、望む言語を使用する「権利」があります。正当な理由なく、その言語の使用を禁止されることは、あってはなりません。しかし、それは、その言語の使用環境を保証してもらえる「権利」ではありません。
 一方、言語を個人や団体のアイデンティティーの一種であると見なす向きもあります。しかし、アイデンティティーの点から見た場合、心に対しては信教・道徳の方が影響は大きいですし、身体に対しては民族・種族の方が大きな影響を与えています(あくまで平均ではという話で、個人差が非常に大きいものではあります)。言語がアイデンティティーに与える影響というは、実はそれほど大きくないのではないでしょうか。
 また、言語は文化であるという意見もあります。が、その意味では、言語以外のほぼ全てのものも文化たり得る資格を持ちえてしまいます。言語そのものが文化であると言うよりは、言語は文化を背景として存在するものの一つと考えた方がよい気がします。
 言葉は、学習によって新しく取得可能なものです。そして、取得しようとするかどうかは個人の意思によります。
 巷にある様々な道具に対して、新たな道具を手に入れるかどうかは、その本人の判断によります。人によって制約はありますが、判断によって取得可能であるという意味においては、乱暴な言い方ではありますが、言葉もスマホも車も同じカテゴリーに所属します。各人に種々の事情があるものの、取得するかどうかを含めて、最終的には個人の責任に帰結します。
 他の道具と同様だと考えれば、多くの人に使用される言語は発展し、使用されない言語は衰退していくというのは自然な流れです。それは、これまでの言語の歴史でもあります。
 特定のコミュニティーの中でのみ通用する言語であっても、そのコミュニティーが存続する限り、その中では意味を持ちます。一方で、他のコミュニティーと関係を築くためには、おそらく別の言語が必要となるでしょう。
 コミュニケーションのための道具である限り、言語は人と人の間に存在します。そのため、無数の人と人の関係性によって、言語にも淘汰圧が作用します。歴史的・博物学的な意味では衰退・絶滅する言語を収集することにも意味がありますが、コミュニケーションの観点から合理性を見いだすことは難しいでしょう。
 今ここにある言語は、これまでの歴史をくぐり抜けてきた素晴らしいものです。しかし一方で、これからの歴史の中では、絶対的なものではないのだと言うことを、心にとめておく必要もあると思うのです。
 以上を、言葉で以て記すことにしましょう。