「やばい」
「かわいい」
「きもい」
「うざい」
などなど。
通学時間帯に電車やバスに乗っていると、若い人たち同士の会話の中でよく耳にする言葉です。もちろん、当人たちはそれ以外の言葉も使っているのですが、最終的に話の語尾(結論)がここに落ち着くので、私の耳に残るのでしょう。
どうしてこれらの言葉が多用されるのか、と考えると、やはりこれらの言葉が「便利な言葉」だからなのではないでしょうか。
これらの言葉は、元来とは少し違った意味で使用されていたり、そもそも新しく作られた言葉だったりします。
同じ学校の友達同士という、ある種の開かれたゆるいコミュニティの中では、すべての構成員に通じる言葉が必要です。自分とは生い立ちが異なる人に言葉の詳細な意味を伝えることは難しく、他愛もない日常会話ではニュアンスが伝われば十分なことが大半です。
そのため、このようなゆるいコミュニティの中では、日常的なコミュニケーションのために、厳密さよりもニュアンスに重きを置いたこのような「便利な言葉」が使われるようになります。そして、「便利な言葉」は、あまり深く意味を考えずに使うことができるため、ともすると頻繁に使われることにもなります。
しかし、逆に言うと、「便利な言葉」は、浅い意味しか伝えられない言葉だと言えます。
一人の人間として、他人と真剣に向き合わなければならなくなったとき、どれだけお互いの意思や意見を正しく交換できるのか。これは、他人とのコミュニケーションを成立させる上で、非常に大切なことです。
もちろん、私が文頭で述べたような言葉をきく場面というのは、彼らが日常会話をしているときに過ぎません。当然、彼らも、もっとプライベートなコミュニケーションにおいては、「便利な言葉」以外の「複雑な言葉」も使っているのだろうと思っています。
言葉の詳細な意味まで他人に伝えることは大変なことです。だからこそ、自分の言葉の取捨選択に工夫をし、人の話に耳を傾け、少しずつボキャブラリが豊かになっていくのだと思っています。これは、一朝一夕に何とかなるものではありません。
どうしても人と真剣に向き合わなければならなくなるときというは、ある日、突然に訪れるものです。
目の前の相手よりもスマホの中の仮想空間とコミュニケーションをとることの方が多い人であっても、言葉を使うということの重要性は、決して少なくなることはないのです。
了