竜騎士伝説

Dragon Knight Saga

第9章 東への旅 その5

 ダリオットは吹きつける潮風を全身で感じ取っていた。こんな感じはずいぶんと久しぶりだ。
 隣にはファンが同じようにして立っている。
 船が海に出てからしばらくの日々がたっていた。
 彼らの乗っている帆船は、普通の海賊船と比べて二回りほど小さかった。余分な装飾などはすべてカットされ、実用的なものだけで固められていた。装甲も通常よりかなり厚い。そのせいか、この船は全体的に無骨なイメージを起こさせた。
 クラーケン相手に、外見での威嚇など無意味である。そのためファンはこの船を選んだのだ。
「どっちに向かう?」
 船首に立って、ファンはダリオットに尋ねた。
 すでに、まわりに陸はかけらも見えない。
「…あっちだ」
 だが、ファンに答えたのはダリオットではなかった。いつの間にかダリオットの隣に来ていたアルが、南の海を見つめながらそう言った。
「ほぅ、何か理由でもあるのかな?」
 悪戯っぽくファンが尋ねる。
「いや…。ただそう思うだけだけど…」
 アルはうつむいた。自分でも、どうして南と思ったのかは分からなかった。ただ、彼の中の何かが南に行けと言うのだ。
「分かった。まあ、どうせあてもないんだ。よし、南だ! 南へ向かうぞーっ! 取舵いっぱーい!」
 船尾の方へ向き返って、ファンが叫んだ。
 ぶわっと風が吹き。
 船は、ゆっくりとその進行方向を変えていった。

 それから二日間、船は何事もなく洋上を航海した。天気にも恵まれ、波は穏やかだった。
「ダリオット、いいかげんクラーケンを倒す方法を教えてくれてもいいんじゃないか?」
 ファンは、まだその方法を知らなかった。ファンだけではない。アルやマリーを始めとして、ダリオット以外の誰もクラーケンを倒す方法を知らないのだ。ただ分かっているのは、ダリオットが出港前に街から取り寄せた中身の分からない樽をいくつか運び込んだということだけである。
「ああ、それか…」
 ダリオットが何か言うとした時だった。
「頭ーっ! 大変です! クラーケンが…、クラーケンが現れました!」
「何ぃ!?」
 それは、予告もなく突然に現れた。
 空気が張りつめる。
 見張りの叫び声に、船内は騒然とした。慌てて持ち場につく者。ロープやら布やらを持って駆け回る者。声を張り上げて号令を出している者。
 突然海が大きく荒れ、白い触手が海上に顔を出した。しぶきが飛び、大きな音をたてて甲板に振りそそぐ。
「ダリオットさん。大変なことに…」
 アルとマリーが不安げな表情で駆け寄ってきた。
「分かっている。大丈夫だ」
 優しく彼らに言葉を投げる。初めての航海、その上にクラーケンである。不安になる気持ちは十分に分かった。
 ダリオットは顔を上げた。ファンの横顔が目に入る。
「ダリオット、詳しい説明は後でいい。とにかく、あの化け物を何とかしてくれ」
 険しい表情で海を見つめるファン。その目の前の海が大きくうねっている。
「分かっている。人手を借りるぞ?」
「ああ、構わん」
「アル、マリー、積み込んだ樽を全部甲板に上げてくれ。人を使ってもいい。できるだけ早くだ」
「わ、分かった」
「ええ」
 走り去るアルとマリー。ダリオットはその後ろ姿を見送ってから、荒れた海を睨みつけた。
「クラーケン! いよいよだ!」

 倉庫から運び出された樽が甲板の上に並べられている。全部で十ほど。揺れで転がらないように、海賊の手下たちが押さえている。
 時折、海面に白いものが見え隠れし、その度に船が大きく揺れた。
「いいか、おれが合図をしたら、いっせいにこの樽を海に投げ込むんだ!」
 甲板のへりに立って海面を凝視しながら、ダリオットは樽を押さえている男たちに叫んだ。
 男たちが無言で頷く。どの顔も緊張でこわばっていた。降りかかる水しぶきのため、すでに皆びしょ濡れになっている。
 船が大きく沈み込む。と、跳ね返るような突き上げがきた。
「ぐっ…今だ!」
 ダリオットが叫ぶ。と同時に、海を割って白く平らな頭が顔を出した。横に大きく裂けた口に、鋭い牙が何列にも並んでいる。樽が投げ込まれ、クラーケンの口が樽を飲み込む。クラーケンは舷側をかすめるかのようにして海中に潜った。大きな波が押し寄せて引く。緊張が走った。クラーケンは、まだ去っていない。
「一体何を投げ込んだんだ?」
 不思議と海は静まっている。ファンは不安げな面持ちでファンに尋ねた。
「爆薬だよ」
 海面を見つめながら、ダリオットが答えた。緊張のためか、額には汗が浮かんでいた。
 樽の中には二種類の薬品が入れられており、クラーケンの体内で樽が壊れて混ざることによって発火、爆発するといった仕掛けだ。
「な…、そんなもの…!」
 ファンは驚いて口が利けなかった。
 そんな危険な物が今までこの船の腹の中にあったなんて…。
「ダリオット!」
「静かに! もうすぐだ!」
 ダリオットが叫び返す。すでに、海には波一つない。

「まったく、ダリオット殿も無茶をするわい」
 岬の岩の上に、薄いグレーのローブをまとい、節くれだった杖を持った老人が立っていた。
 目は遥か遠くの水平線を見つめている。
 通常の目ではない、魔法の視力だけが、遙か遠くの海上でおこったできごとをとらえていた。
「クラーケンよ、すまないが、ここはおまえのいる所ではないんじゃ。悪く思わないでくれよ」
 そう言って、老人はゆっくりと杖を上げた。
 大魔法使いと呼ばれるその老人 - ルーンヴァイセムは静かに呪文を唱えはじめた。

 皆が無言で海を見つめていた。誰も身動き一つしない。
 重苦しい雰囲気があたりを支配していた。
 どれくらいの時間がたったのだろう? 一瞬のような気も永遠のような気もする。
『だめだったのか…?』
 ダリオットの胸中に不安が頭をもたげはじめた。
 と、その時だった。
 ドッ…
 低い振動がきた。
 そして、次の瞬間、ドーンという豪音とともに、巨大な水柱が立った。陽光にきらめく水の巨搭。巻き上げられた水が滝のように降り、船が大きく揺れた。海水にまじって、白い触手の破片がボタボタと落ちていく。
 海が再び静けさを取り戻した後、海上の至る所には白い肉片が浮いていた。
「やったぁーっ!!」
 誰かが叫んだ。それを合図に、船中に歓声が広がっていく。
 ダリオットは手すりにもたれかかったまま、大きく息を吐いた。張り詰めていた神経が弛緩していく。
 と、誰かが肩を叩いた。振り返ると、満面に笑みを浮かべて、ファンが手を差し出していた。ダリオットはその手を固く握り返した。
 クラーケンは倒されたのだ。もう海を脅かす怪物はいない。

「約束だ。船は貸してやろう。だが、いったいどうするつもりなんだ?」
 港近くの酒場で、ファンが何杯目かの盃を空ける。海賊たちは、クラーケンを倒したことでお祭り騒ぎになっていた。
「おれはエスミに行くつもりだ」
 そう言って、ダリオットはジュヴナントから聞いた話をした。そして、彼らが陸から行くのなら、自分は海を行くつもりだと。ファンは静かにその話を聞いていた。
「なるほどな。それで船を借りたいってわけか…。けど、分かっているのか? ここから正直にラザリをまわっていったら、エスミに着くのなんていつになるか分かったものじゃないぞ」
 大大陸の南部地方ラザリは、巨大な半島が大きく南へと張り出したような形状をしている。しかも、途中は人の住まない土地が続くのだ。
「…いくらかかろうが…」
 ダリオットの答に、ファンはふっと笑った。
「言ったろう? 正直にラザリをまわっていったら、だって。…急ぐんだろ?」
 ダリオットにはファンの言わんとすることが理解できなかった。怪訝そうな顔をファンに向ける。
「行けるんだよ。ラザリなんかをまわっていかなくても、エスミにね!」
 酒場の喧噪の中、ファンが大声で笑った。

- 第9章おわり -