ダリオットがクラーケンを倒した頃、丁度ジュヴナントらが悠久の山脈を越えた頃から、ベルタナス王国及びその周辺地域でのオークたちの攻撃が、急速に苛烈の度合いを深めつつあった。
ベルタナス王国でも、大森林<グルナ=カルランテ>や黒がね連山<ロスタルト=テア=ナンテ>のあたりを中心として、連日連夜、激しい戦いが行われていた。
「いよいよか…」
ベルタナス王国の国王クワラル三世は、白い顎髭に手をやりながら弱々しく呟いた。ここ会議ノ間には、名だたる大臣や諸侯が一堂に会している。皆が緊張した面持ちでクワラル三世を見ていた。
「もはや退くことは許されまい。闇の軍勢が倒れるのが先か、われらが倒されるのが先か。やつらに、このベルタナスの意地を見せてやろうぞ」
クワラル三世の言葉に、わっと歓声が上がる。
クワラル三世は歓声の中、笑顔で皆を見渡した。だが、その笑顔とは裏腹に、心中は重い。この場にダリオットとタルカサスがいないこと、それが気がかりだった。
王国一の剣士とうたわれたタルカサス。彼が突然その行方をくらませてから、すでに一週間以上がたっている。タルカサスに限って心配は不要なのだろうが…。
一方、ダリオットの出奔はある程度予想できていた。とはいえ、やはり父親として、そして国王としては、ダリオットにはこの城にとどまっていてもらいたかった。無駄だと分かっていながら、ダリオットに城からの外出を禁じたのもそのためだった。だが、運命には逆らえないのか。クワラル三世は、ルーンヴァイセムに聞いた言葉を思い出していた。
結局、この近衛会議では、ジェンラウァを軍の総参謀とすること、悠久の山脈近くの兵力を増強すること、近衛隊を中心として各都市の防衛にあたることなどが決定された。
だが、現在のオークたちの攻撃が、まだほんの手始めであったことを、彼らは後にいやというほど思い知らされることになるのである。
「ラザリをまわらなくてもいいだって?」
ダリオットは、よく分からないといった風に、目の前の男ファンに尋ねた。
フェルバの酒場の中は歓声に満ち満ちている。だが、それはダリオットの聞き間違いではない。
「はっはっは、すぐに分かるさ。ま、クラーケンを倒してくれた礼もあるしな。おれも途中まではつきあうぜ」
そう言って、海賊の頭領ファンは盃に新たな酒をついだ。
港で彼らが乗り込んだ船はクラーケン退治の時よりもさらに小さかった。帆も付いてはいたが、それよりもオールで漕いで進むタイプの船らしい。
船は彼らが乗り込むと同時に港を出発した。すでに用意は整っていたようだ。
細長く海へと突きだしたグータ岬を右手に見ながら、穏やかな海を進む。船は、そのままテーラ川の河口へ向かって一直線に進んだ。
「おい、確かこの先には橋があるはずじゃあ…」
ダリオットが尋ねる。
大大陸を貫く生命線ともいうべき大街道。それは、西は遥かミナセルから、南はスクルートに至るまさに大陸を横切る壮大な街道である。その大街道がちょうどフェルバあたりでテーラ川を横切っていた。ダリオットが言ったのはその橋のことだ。
「まあ、心配するなって」
悠然と腕を組んだまま、ファンは船首に立っていた。船がフェルバの街の脇を通り過ぎ、大きな橋が目前に迫る。
「な、何だ!?」
じっと橋を見ていたアルが、突然のできごとに目を丸くした。
目の前で、橋がゆっくりと左右に割れて跳ね上がっていく。やがて、橋は完全に二つに割れ、船はその間をゆっくりとすり抜けていった。
「あれが跳ね橋っていうやつだ」
得意気にファンが説明する。アルやマリーは、驚きのあまり茫然と橋を見上げていた。
船が通り過ぎると、再び橋はゆっくりと閉じていった。
「このあたりの連中とは、もう顔なじみなのさ」
そう言って、ファンはダリオットにウィンクした。
ダリオットとしては、ため息をついて見せるしかない。
『これでは、海賊退治がうまくいかないのも当然だな…』
ダリオットは苦笑した。
ファンを中心とした海賊グレス一家は、この周辺に住む人々の心をしっかりとつかんでいた。
船はそのままテーラ川を遡っていった。この先に待つのは『テーラの門』と呼ばれる岩穴だ。
悠久の山脈に端を発し南西へと流れるテーラ川は、黒がね連山に行く手を阻まれ、連山の北にネスムール湖とそのまわりに広がるネスムールの沼沢地をつくりだしていた。そして、その川の水が黒がね連山の下を通り抜けて、再び『テーラの門』から湧き出すのだと言われている。
彼らが向かおうというのは、その『テーラの門』なのだ。
「いったい…?」
ダリオットには、どうして船が『テーラの門』に向かうのかが分からなかった。
だが、ファンはただ笑って、行けば分かる、と言うのみである。
やがて、船の進行方向に黒がね連山が姿を現した。その麓にぽっかりと開いた黒い穴。船は舳先や艫にランタンを吊るしたまま、船がやっと通れるほどの狭い穴の中に、ゆっくりと入っていった。
洞窟の中は驚くほど静かだった。ランタンの光に照らされて暗い水面が時折輝く。何日もの間、船は音も立てずに、真っ暗な水の上をゆっくりと進んでいた。
ファンの話では、この地下水路は黒がね連山の東域一帯に広がっており、その一部は悠久の山脈にまで通じているという。そして、黒がね連山のみならず悠久の山脈からも『テーラの門』と同じように水が湧き出しているのだという。それが、アレタカ川やコントーナ川だというのだ。ファンはこの地下水路を通って、悠久の山脈の東側、コントーナ川に出るつもりだった。
「しかし、なぁ…」
ファンの話を聞いた後でも、ダリオットには実感がわかなかった。容易くは信じられない。
黒がね連山はおろか、悠久の山脈にまで広がる地下水路網。そんなことを言われてもピンとくるはずがないのだ。
しかし、ダリオットたちは知らなかったのだが、ここ黒がね連山の東部から悠久の山脈のあたりは、厚い石灰岩の地層から成っていた。石灰岩は、雨水による溶解・析出を繰り返しながら、気の遠くなるような長い歳月の末に、こんな立派な鍾乳洞と地下水路網をつくりあげたのである。かつて、ヤンやキリアーノが見た地底湖も、そういったものの一つにすぎない。
ダリオットは船首の手すりにもたれたまま、ぼんやりと船の行く先の水面を見つめていた。
太陽の光の差さない黒い水面。この船の下を行く水は、遥か北の大地をはるばる流れてきた水なのだろうか。そう考えると、急に船が見えない力でしっかりと支えられているような気がした。
「大地の下の…川か…」
ダリオットは、ぼんやりとそう呟いた。
その時、彼は視界の中に妙なものを見つけた。皮袋である。小さく膨らんだ皮袋が、水面にぷかりと浮かんで、ゆっくりとこちらに向かって流れてくるのだ。
「お、おい! 誰かあれをとってくれないか?」
ダリオットは、甲板の上にいる人間に向かってそう叫んだ。
「こいつは…」
そう言うなり、ファンは絶句した。
皮袋の下に吊り下げられていたのは、一振りの長剣だった。細かい装飾の入った茶の鞘におさめられていたその剣は、ランタンの光にキラリと刃を瞬かせた。刀身には何の装飾もなされていなかったが、その輝きを見れば、剣に詳しくない者でも稀に見る名剣だということが分かる。
「これは…、バトスの剣…?」
剣を見たまま、アルが呟いた。
「バトスの剣?」
ダリオットもその名は聞いたことがあった。遥か昔、戦いの神バトスが、世に名をはせた勇者に対して贈ったとされる剣。だが、それは今まで伝説の中のものだとばかり思っていた。
「こいつが…」
まさか、現実に存在していようとは…。
ダリオットは、手を伸ばして剣の柄を握った。
「うっ…?」
一瞬、剣が光ったような気がした。そして、バトスの剣はダリオットの手にぴたりとおさまった。
「…まいったな。これじゃ、まるで、この剣はあんたに拾われるために出てきたみたいじゃないか」
そう言って、ファンは頭を掻いた。
- つづく -