「珍しいね、あんたがここに来るなんてさ」
白磁のカップに温かい紅茶を注ぎながら、カーラは久しぶりの客に目を向けた。
「たまたま近くを通りかかったものでね」
彼はそう言って、柔らかな湯気の立ち上るカップを受け取った。
「そうは見えないけどね、タルカサス」
微笑みを浮かべたまま、彼女はそう言った。
古びたプレートメイルに身を包んだタルカサスの姿は、お茶を飲みに来たというには物々しすぎた。
「また、やつらが動き出したようだ…」
窓の外に目を向けたまま、タルカサスはそう呟いた。カーラが、一瞬表情をこわばらせる。
「…知っている。私もジュヴナントとクレアという人間には会った」
そう言って、カーラも窓の外に目を向けた。森の木々は、照りそそぐ太陽に向かって、若葉を精一杯に広げている。
「早いものだね。もう、あれから三〇年がたとうとしている…。でも、私は決して忘れない…」
「はぁっ!」
ドウッ!!
カーラの炎の一撃は、密集していたオークの大半を一瞬の内に吹き飛ばしていた。爆風にカーラの黒い衣服の裾が揺れる。
「いくぞっ!」
それを合図に、タルカサスとヒュロースが剣を構え残ったオークの中へと突っ込んでいく。
「がぁっ…」
「ぐぁ!」
オークの悲鳴が飛び交う。
剣のきらめきとオークの悲鳴を後に残しながら、彼ら四人はオークの中を駆け抜けていった。
「待てぃ! これ以上は行かさん!」
不意に、タルカサスの目前に鋼鉄の斧が振り下ろされた。
「…!」
間一髪、剣でそれを受ける。
剣と斧がこすれて甲高い悲鳴を上げる。
だが、タルカサスは体をひねって斧を受け流すと、返す刀で斧をはじき、そのまま相手に向かって斬りつけた。
「ぐわっ…」
鮮血が飛ぶ。
だが、それを確認することもなく、タルカサスは全力で駆けていた。
すでにオークたちは総崩れとなっていた。
目指すは敵の神殿。剣の山の中腹の伏魔殿。
それはもう目前にまで迫っているのだ。立ち止まることなど許されまい。
「…ぐぐ…」
男は左目を押さえたまま、恨めしそうに神殿の方を振り返った。
ぼんやりとした視界の中に、小さくなっていくタルカサスの後ろ姿が映る。
太い指の間から血がしたたり落ちた。
ぼさぼさのたて髪と垂れ下がった耳。それは普通のオークのものでも、ましてや人間のものでもなかった。
「…この恨み、…忘れんぞ…」
しだいに遠くなっていく意識の中、剣の山守備隊隊長ドゥルガは、そう低く唸り、地面に倒れた。
「ここかっ!」
青の騎士ヒュロースは神殿の奥の扉を蹴破った。
だが、全身を青鎧で包み、手に長剣を構えた騎士は、そのままその場に立ち尽くした。
彼の後に続いて、タルカサス、エイリアム、カーラも部屋に入る。そして、ヒュロース同様言葉を失った。
その部屋には、ろうそくの灯りの中にぼうと照し出されるかのようにして一体の魔物がいた。
頭頂はとさかのように盛り上がり、顔の横には左右三本ずつの突起物が生えている。鋭い赤い目、大きく裂けた口に土色の肌。神官がまとうような真っ白の服装に、太った体を押し込んでいる。
その魔物が放つ威圧感は、これまでのどんな敵よりも遙かに強大で邪悪だった。
部屋の奥には祭壇が取り付けられており、さらにその奥には石でできた巨大な扉があった。
「来たか…」
その魔物は彼らを一瞥すると、ぞっとするような冷たい声でそう言った。
「ふ、ふざけるんじゃないよ!」
カーラが魔物に向かって火球を放つ。だが、それは魔物の前ですっと消えた。
「な…」
「無駄だ。私にそんなものは効かない」
薄笑いを浮かべた魔物のまわりに、音もなく多数の雷球が出現した。不気味な光が部屋の中を照らしだす。
「…っ!」
バシィッ!
打ってかかろうとするタルカサスの足下にそのうちの一つが炸烈した。石の床が大きくえぐれる。
「無駄だと言ったはずだ。おまえたちは私に指一本触れることもなく、ここで死ぬのだ」
魔物は低い声で宣言した。
彼らは、この二つ前の部屋で魔王を名乗る男と死闘を演じていた。そして、激闘の末、黒いマスクの男を倒した直後であったのだ。もはや余力などほとんど残っていない。
その上、目の前の敵は、先程まで魔王を名乗っていた男よりもさらに強大なのだ。
雷球の光の中、タルカサスらの背中を冷たい汗が流れ落ちた。
「ここまで来て、おとなしくやられるものか!」
そう叫んで、カーラが呪文を唱えた。最大規模の火球がカーラの腕の中にできていく。
「無駄なことを…」
魔物が小さな声で呟いた。と同時に、雷球が四方八方からカーラに襲いかかった。
「あっ!」
「カーラ!」
呪文を唱えているカーラに、避けられるタイミングではない。
その瞬間、人影が飛び込んだ。
バシィッ!
カーラの体が弾き飛ばされた。そして、彼女がいた所に雷球が降りそそぐ。
閃光!
そして、まばゆい光が収束していく。
「エイリアム!!」
カーラが叫ぶ。
タルカサスとヒュロースがはっとまわりを見回す。
だが、その姿はもうどこにもなかった。
雷球の熱量は、カーラの身代わりとなった彼を一瞬の内に蒸発させていた。
「そんな…」
カーラは茫然と立ち尽くした。
今まで、何度も危険な目にはあってきた。だが、その度に何とか一緒に窮地を切り抜け続けてきた仲間なのだ。
人はこんなにも簡単に死ぬものなのか…?
カーラには分からなくなっていた。
『まずいな…』
ヒュロースは心の中でそう呟いた。
かなう相手ではない。力の差があまりにもはっきりしていた。このままではいずれ全滅する…。
「タルカサス、カーラ、ここは退くんだ!」
ヒュロースが叫ぶ。タルカサスが目で頷いた。
だが…。
「ふっ…」
魔物が笑って何やら呟くと、石の床から数体の巨大な人影が湧き上がった。部屋中が激しい振動に包まれる。やがてそれらはいびつな人型をなした。
ストーン・ゴーレム。
魔法によって操られる身長数メートルの岩の巨人だ。
ストーン・ゴーレムは彼らの逃げ道を塞ぐかのようにして襲いかかってきた。
だが、カーラは茫然と立ち尽くしたままだ。
「カーラ!」
タルカサスがそう叫んで、彼女の腕を引き寄せた。ストーン・ゴーレムの振り下ろした拳が巻き上げる岩の破片を避けながら、小さな出口を目指す。
「ヒュロース、早く!」
ただ一人、ストーン・ゴーレムと渡りあうヒュロースに、タルカサスが叫ぶ。タルカサスとカーラーはすでに扉の外へと走り出ていた。
ヒュロースは、タルカサスとカーラが無事に扉の外に抜けだしたのを確認しつつ、扉に駆け寄った。
「行けっ!」
ヒュロースはタルカサスに向かって大声でそれだけ叫ぶと、扉の前で立ち止まった。そして、そのままくるりと向きかえると、ストーン・ゴーレムに対峙したまま、背で部屋の扉を閉めた。
彼の目前にはストーン・ゴーレムが迫ってきていた。
「さあ、ここからはおれが相手だ」
ストーン・ゴーレムに向かって、ヒュロースはそう叫んだ。
「ヒュロース!!」
タルカサスは振り返って、扉が閉まるのを見た。そして、それが意味することも…。
「ヒュロース…」
タルカサスが呟く。
そして、剣を握る。
「…。うぉぉぉぉーっ!!」
部屋のまわりには、すでに数多くのオークたちが集まってきていた。
だが、タルカサスはカーラの手を引きながら、がむしゃらに剣を振るった。全力で駆け、出会う敵はすべて一刀のもとに斬り倒した。
涙で目がかすんだ。
だが、決して立ち止まらなかった。立ち止まってはならなかった。それがヒュロースの意志なのだ。生きてここから脱出しなければならない。そして、いつか必ず、ヒュロースとエイリアムのかたきをとるのだ…。
その思いだけを胸に、彼らは剣の山から脱出した。
ヴェンディに戻った後、カーラは自分に禁断の時の魔法をかけた。自分の力を維持するために、いつか再びエスミに戻る時のために…。
そして、タルカサスはナムラの城に、カーラは離れ山に居を構えた。
太陽の光のもと、若葉の緑がまぶしい。
タルカサスは目を細めた。短く刈り上げた髪や口髭には白いものが交じって灰色に見える。
「そうだな…。忘れるはずがないな…」
タルカサスは小さな声でそう呟くと、静かにカップを口にもっていった。
- つづく -