窓の外の雲が、風にのって流れてゆく。遥か地平線にまで続く緑は、この平原がもうすぐ本格的な夏を迎えようとしていることを示している。
城の窓から眼下に広がる風景を見つめつつ、ダリオットはジュヴナントの話を思い出していた。
大きな戦いが目前に迫っているという。ならば、これが嵐の前の静けさというものなのだろうか。
だが、その実感はない。
街の広場でダリオットを襲った黒装束の者たちについて、あの地下牢での事件の後、アルとマリーはすべてを語った。
彼らはドレス湾のグータ岬に居を構える山賊団であった。最近、海賊グレス一家の勢力拡大にともない、逆に、彼らの勢力は著しく低下していた。縄張り争いがもとで何度か小競り合いも起きている。だが、その度に苦汁をのんでいるのは山賊団の方なのだ。
そんな折、苦肉の策として考え出されたのがダリオット暗殺計画であった。ベルタナスの王子を暗殺し、それをグレス一家の仕業に仕立て上げようという計画である。もっとも、周知の通り、その計画はジュヴナントによって成功しなかったのだが。
あの事件が、ダリオットをより強く城の中に引き止めているのは事実である。外の世界との、現実に広がる世界との接触が断たれて久しい。
窓から見える景色は以前と変わらない。
『このおれにできることは、いったい何なのだろう…』
風は答えず、ただ過ぎゆくばかりである。
「ダリオット様」
城の廊下を自室へと向かう途中で、走ってくる衛兵がダリオットを呼び止めた。
「何だ?」
立ち止まってダリオットが尋ねる。
「今、ルーンヴァイセム様がお見えになって、ダリオット様にお会いになりたいと」
ルーンヴァイセムと言えば、知らぬ者のない大魔法使いである。
息を切らしながら、衛兵は赤ら顔で興奮したまま一気にまくしたてた。
「ルーンヴァイセム殿が…? 分かった。すぐに行く」
「ルーンヴァイセム殿」
「おお、これはダリオット様、相変わらずお元気そうな様子でなによりです」
謁見ノ間の近くの小部屋で、ソファーに座ったまま、ルーンヴァイセムはダリオットを迎えた。
「いったい、どうされたのですか? こんな突然お見えになるなんて」
不思議そうにダリオットが尋ねる。ルーンヴァイセムは優しく微笑んだ。
「いや、たいしたことではありませんよ。ただ、あなた様が何か悩んでいるように見えましたのでな」
「悩んで…いる…?」
心の内を見透かされたように感じながらも、その動揺を隠したまま、ダリオットはルーンヴァイセムに尋ねた。
「どういうことです? 私に悩むことなどありましょうか?」
自身にも意外な動揺であった。もう決心はしたはずなのに。
「いやいや、私の思い過ごしならばそれでいいのですよ。けれど…」
「…けれど?」
「けれど、もし悩んでおられるのなら、その時は、あなた様の心のままに行動することです。それこそが、運命の導くところなのですからのぅ」
ルーンヴァイセムの暖かい光りをたたえた眼差し。ダリオットは、この老人の前では何も隠すことができないのだということを改めて思い知らされた。
「そのお言葉、ありがたく受け取っておきます」
そう言って、ダリオットは深く頭を下げた。
日が地平線の彼方に沈んでから、ずいぶんと時間がたった頃。
ベルタナスの王城は夜の暗闇の中にひっそりとたたずんだまま息をひそめていた。
アルは、石牢の壁にもたれたまま何もない暗闇を凝視していた。その脇では、栗色の髪の少女マリーが静かに寝息をたてている。
頭領の行為とダンの死が、いまだに彼を翻弄していた。山賊団のことなど、もうどうでもよくなっていた。貧しさのあまりに親に捨てられた彼らを拾ってくれた山賊団も、結局は彼らを捨てたのだ。
仮にも、一国の王子を襲ったのだ。死罪は免れないだろう。覚悟はできている。ただ、心残りがあるとすればマリーのことだ。できることなら、マリーだけでも無事に生きていてほしい。自分にとって、たった一人の妹なのだから…。
だが、アルの思考は突然中断された。
「誰だ?」
アルの、天性の研ぎ澄まされた勘が、この地下牢への接近者を教えていた。
もう夜も遅い。この時間では、見張りの衛兵ですら、ここには来ない。
「…起きていたのか。ま、その方が助かるが…」
「な…」
地下牢の前に姿を現した人間に、アルは声を失った。実際には一度しか会ったことはない。だが、一生忘れないだろう。
ダリオット・セア・クワラル。ベルタナスの第二王子…。
彼らが殺そうとした男が、アルの目の前にいた。
「頼みがある。ここから抜け出さないか?」
ダリオットは口の端に笑みを浮かべたまま、あっけにとられているアルの目の前に、地下牢の鍵を取り出した。
小高い丘は、一面、緑の絨毯を敷き詰めたかのようだった。心地好い風が晴れ渡った空を通り過ぎてゆく。
ダリオット、アル、マリーの三人がナムラの城を出てからすでに三日がたっていた。その間、ガネリア街道をひたすら南下している。
「ねぇ、ダリオットさん。本気なんですか?」
少し眉をひそめて、アルは、前を歩くダリオットに声をかけた。
「心配はいらないさ。本拠地まで案内してもらえれば、後は君たちの自由だ。どこに行こうと好きにしてくれればいい」
「でも、危ないですよ。海賊の本拠地なんて…」
マリーが心配そうな声で言う。
ダリオットは、単身、海賊の首領に会いにいくと言うのだ。心配しない方がおかしい。
もちろん、ダリオットにもそれなりの自信はある。だが、それを素直に認めることは、アルやマリーには難しい。
「まあ、まかせてくれ」
笑いながら、ダリオットはそう言った。
海賊グレス一家 -
ここ何年かの内に、急速に勢力をのばしてきた海賊である。ドレス湾やハルバース島あたりを拠点とし、デ=トラナサル一帯を荒らし回っている。義族を気取ってか、金持ちの船しか襲わない。その気質が、広く民衆の人気を勝ち取っていた。
ベルタナス王国自身もいくたびか討伐を試みているが、そのすべてが失敗に終わっていた。
グレス一家の頭領は、ファン・ドーゴ・グレスという。
ダリオットは海賊討伐の戦いの際、船上でただ一度だけだが、そのファン・ドーゴ・グレス本人と剣を交えたことがあった。
敵ではあったが、まったくもって憎めない男だった。こそこそするのが嫌いで、真正面からたった一人で打ちかかってきた。いく合も打ち合う前に別れたが、お互いの腕を認めあうには十分過ぎた。結局、その時の決着はまだついていない。
アルによれば、グレス一家の本拠地はハルバース島の南西端の町である。しかし、より広い活動範囲をカバーするため、ハルバース島だけでなくフェルバの近くにも拠点があるという。こういった複数の拠点が、海賊グレス一家を影から支えているのだ。
アルの話では、この時期ならばファン・ドーゴ・グレスらはフェルバ近くの拠点にいるはずだった。
だが、さすがの海賊グレス一家も、最近現れたクラーケンの前ではかたなしだった。
クラーケン -
全長数十メートルに及ぶ海の怪物。全身をはっきりと見たことのある者はいないが、白いぬめぬめとした皮膚に覆われ、イカのような触手を何本か持っているという。クラーケンの前では、大きな船といえどもただのおもちゃにすぎない。しかし、クラーケンといえば深海の底に住んでいるはずの生物である。それが、どうしてこんな近海の浅瀬にまで出てきているのか…。その答は誰も知らない。
彼らはただひらすらに街道を南下し続けた。
いつしか岩に寄せてはかえす波の音が聞こえはじめた。
岩燕が高い空を舞っていた。
空は抜けるように青い。
ダリオット、アル、マリーは、無言で海岸沿いのまばらに草の生えた岩地を歩いていた。
グレス一家の拠点はもうすぐそこである。
- つづく -