「…ここはいったい…?」
塔の中へと一歩足を踏み入れたジュヴナントがそうつぶやいたのも無理はなかった。
彼らの前には、巨大な花園が開けていた。
青い空を優雅に舞う蝶や小鳥。
暖かな風にそよぐ色とりどりの草花。
目の前に広がる風景は、とてもこの塔の中庭とは信じがたいものであった。
「さあ、こちらです」
そう言って、クレスタは壁際の階段を指し示した。
その階段は緩やかなカーブを描いて、緑の中の白亜の宮殿へと続いている。
二人はゆっくりとその階段をのぼっていった。
この塔はジュヴナントにとって驚異の連続であった。
だがそれらも、この部屋の中に入ったときの衝撃に比べればまだ小さなものであるといえた。
いくつか立ち並ぶ白大理石の柱にはツル植物の彫刻が巻きついている。四方の壁には、いくつかの壁画がまるで絵巻物のように描かれている。どの方向を見ても、そういった装飾が部屋中を上品に彩っていた。装飾だけではない。広く開け放たれている窓からはやわらかな日差しが差し込んでいた。
だが、ジュヴナントの目を引いたのはそれらではなかった。
部屋の中央には白い優雅な長椅子がおかれていた。
そしてそこには、翡翠の髪をした女性が座っていた。
「ようこそ、春の塔へ」
その女性はそう言ってジュヴナントに微笑んだ。
そのとき初めて、ジュヴナントは自分が息をするのを忘れていたことに気付いた。
「ごきげんうるわしく」
そう言って、クレスタは彼女の前にひざまずいた。
それを見て、ジュヴナントもあわててひざまづこうとしたが。
「いいのですよ」
そう言って笑った女性の言葉に、ジュヴナントは顔を上げた。
翡翠色の長い髪。白い肌が白のロングドレスに映えている。大きなエメラルドの瞳がジュヴナントを優しく見つめている。
年齢は三十ほどであろうか。優しさと気品が自然にそのまわりにまとわりついていた。
「あ、あなたが春の女王…?」
「まあ。あなたね、そんなことを吹き込んだのは」
そう言って、彼女はクレスタのほうを見て笑った。
まるで鈴の音のようだ…。
ジュヴナントは、あっけにとられながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
「たしかに、私のことをそう呼ぶ人たちもいます」
彼女はジュヴナントの方へ振り向いた。
「私の名前はエスタルシャ。そう呼んでくれた方が落ちつくわ」
彼女はそう言って椅子から立ち上がった。
「でもめずらしいわね。この塔にお客様なんて」
「よく分からないんです。ここはいったい…?」
ジュヴナントは思いきってそう尋ねた。
「あら、さっき言ったはずよ。ここは春の塔だって」
そう言って、エスタルシャはさもおかしそうに笑った。
そのまま、開け放たれた窓のそばまで歩み寄ると、窓枠に両手をついて外の景色を眺めた。眼下には相変わらずのどかな春の風景が広がっている。
「もちろん、はじめての人は驚くでしょうね」
外を眺めたまま、エスタルシャはそう言った。
「でも、ここを訪れるには理由があるはずですよ」
その言葉に、ジュヴナントははっと顔を上げた。
「もしかして、この指輪のことですか?」
この塔が現れたとき、この指輪はまぶしく輝いていた。いや、逆にこの指輪が塔を引き寄せたのか?
あの神殿でベルムサラートはなんと言っていたか? 精霊神の与えし風の指輪…。
「では、あなたが、精霊神…なのですか?」
「ふふ…。まさか。私は神様なんて大それたものじゃないわ」
エスタルシャは振り向いて微笑んだ。
「神というのは、そのままじゃこの世界では実体をもてないの。でも私はちゃんと自分の身体を持っているわ」
そう言って両手を広げてみせる。
「神様なんかじゃなし、あなたのような人間とも違うけど」
そこで言葉を一度きる。真剣な眼差しがジュヴナントを見つめた。
「忘れないで。この世界には私たちのようなものもいるのよ。ねぇ、クレスタ?」
そう言って再び微笑む。
「私に話をふられても困りますけどね」
クレスタは苦笑した。
「それよりも、どうしたんですか? こんな森の奥で。街道からもずいぶん離れていると思いますが」
今度は、クレスタがジュヴナントに質問を投げる番だった。
「何かわけがあるのでは?」
そう言われてはじめて、ジュヴナントは自分がこの森に入った理由を思い出した。
森の空き地。ディアグの襲撃。白と黒の煙幕。そして、消えたルシアのことを…。
「なるほど」
ジュヴナントの話を聞いて、クレスタは頷いた。そして、エスタルシャの方を見る。
「ならば、残念ながらその女性はこの森の中にはいません」
クレスタに代わってエスタルシャが答えた。
「ですが、あなたが旅を続ければ、いずれまた巡り会うことができるでしょう。それは意外な出会いになるはずです」
それは予言であったろうか。
「私に分かるのはここまでです。運命を完全に見通すことは誰にもできませんから」
エスタルシャの柔らかな微笑みに、だがジュヴナントは勇気付けられた。
「ありがとうございます。それが分かれば村に戻らなければなりません。おれの帰りを待ってるのがいますから」
その瞳の輝きは、ようやく本来のジュヴナントのものとなっていた。
「では、その前に私にあなたの剣を見せてもらえませんか」
「え?」
突然のエスタルシャの申し出に、ジュヴナントは当惑した。
そんなジュヴナントの肩にクレスタがそっと手をおいた。
「クレスタさん…」
振り向いたジュヴナントに、クレスタは頷いて見せた。
「分かりました。これが光の剣です」
ジュヴナントは、神殿で受け取った光の剣を鞘から抜くと、エスタルシャに手渡した。
エスタルシャは剣を手に取ると、子細にその輝きを見つめた。
「よい剣です。でも、まだ本来の力を発揮できていませんね」
そう言って、エスタルシャは光の剣の表面をさっと手でなでた。
その瞬間、剣の輝きすらも変わったかのようであった。それは、かつてジュヴナントが神殿でドラゴンと闘ったときの剣の輝きそのものであった。
「これでもう大丈夫です」
そう言って、エスタルシャは剣をジュヴナントに戻した。
手のひらに張り付くような感触。その軽さ。なぜ気付かなかったのだろう? すべてが懐かしく思える。
おそらくは、あのドラゴンとの闘いで宝玉をさしたときに、剣本来の力が奪われたのであろう。それをこの女性は見抜いていたのだ。
「ありがとうございます」
心から礼を言って、ジュヴナントは剣をさやに収めた。
「では、村の近くまで送りましょう」
「でも…」
エスタルシャの申し出をジュヴナントは遠慮した。これ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
「気にすることはありませんよ。この塔なら、物理的な空間はほとんど気にする必要がないのですから。あなたが強く願えば、そこへたどり着くことができるのです」
そんなジュヴナントの心を見透かすように、エスタルシャは微笑んだ。
ジュヴナントはもはやエスタルシャの言葉を疑わなかった。
目を閉じ、静かに村の姿を思い浮かべた。
ひんやりとした風がほおに当たった。
ジュヴナントがゆっくりと目を開けると、そこはあの村のすぐ前であった。
街道にはジュヴナントただ一人であり、春の塔はもはや影も形もなかったのである。
- つづく -