「ジュナ?」
トットは眠い目をこすりながら、薄暗い部屋の中にジュヴナントの姿をさがした。
小さな村の小さな宿。木の窓からは、昇ったばかりの朝日が部屋の中に射し込んでいる。
あの日、一日中あたりをさがしまわったものの、結局、ルシアの姿を見つけることはできなかった。ルシアは、まるで煙のように忽然と姿を消していた。
仕方なくジュヴナントとトットは街道を進んだ。そして、ようやくたどり着いたこの小さな村の古宿で夜を明かしたのだ。
だが、今、部屋の中にいるのはトット一人だった。
「ジュナ!」
部屋を飛び出そうとしたトットは、だが、机の上に置かれた一枚の紙片に気付いた。
『しばらく待っててくれ。かならず戻る』
紙片にはただそれだけ書かれていた。
その隣には、二週間は余裕で滞在できるだけのお金の入った革袋が置かれている。
「まったく、独りで行っちゃうなんて、自分勝手なんだからさ…」
何をしに、とは問わない。問う必要はなかった。
腰に手を当ててため息をついてみても、トットにできることはただ待つことだけだった。
そのころ、ジュヴナントは独り森の中を歩いていた。
視界の悪さも、足にからみつく草も気にならなかった。
ルシアはきっとどこかにいる!
その信念だけが彼を突き動かしていた。
トットにはかわいそうだったが、残ってもらうことにした。森の深部は危険が多い。それに時間もないのだ。
行く手をふさぐ藪を切り開きながら、ジュヴナントは次第に森の奥深くへと進んでいった。
「…っと」
ジュヴナントは襲いかかってくる蔦の一撃をかわすと、逆に本体に向かって斬りかかった。
二メートルほどの巨大な食虫植物、それがマンイーターだ。立木のような幹とそこからのびる長い蔦。ふだんは森の中でじっとしているが、近くを動物が通りかかるとその長い触手で獲物をからめ取り、消化する。ゆっくりとなら、自力での移動も可能だ。根のようにみえる足は、ただ移動と体の固定のためだけに存在する。満足に日も差さない森の中では、直接他の生物を補食することが効率よく栄養を補給する手段であると知った植物の、それは動物に対する挑戦的な進化だったのかもしれない。
だが、今のジュヴナントにはそんなことを考えている余裕などなかった。
マンイーターは一体だけではなかった。ざっと見ただけで、少なくとも三体はいる。
おそらくここは小動物がよく通る獣道なのであろう。でなければ、こんなたくさんのマンイーターが密集している説明がつかない。彼らも数少ない獲物を求めて必死なのだ。
「たぁっ!」
幹に剣が食い込む。体液が飛び散る。だが、マンイーターは少しもひるむところがなかった。
「ちくしょう! 堅くて斬れやしない!」
ジュヴナントは跳びのくと、新たな蔦の一撃をかわした。
「こうなったら、蔦を残らず切り落とすしかないか…」
ジュヴナントは、クレアの姿を思い浮かべた。
炎の魔法が使えれば、もう少し楽な戦いができるのだ。
もちろん、直接彼らを倒そうと思えば、巨大な炎が必要となる。だが、彼らは火自体を極端に嫌うのだ。それは本能的なものかもしれない。そのため、わずかの炎でもあれば、彼らをやり過ごすことは可能なのだ。
だが、ジュヴナントに炎は使えない。火をおこす道具は持っているが、そんな悠長なことをしている余裕もない。
ならば、すべての蔦を切り落とすことで彼らの攻撃手段をなくすしかないのだ。
「…っつぅ!」
ジュヴナントが蔦を切り落とすたび、その切り口から体液と混じって消化液が飛び散る。それがジュヴナントの肌につくと、ジュッという音とともに白煙が立ち上る。
だが、攻撃の手を休めることはできなかった。
全身を火傷のあとに覆われながら、だが、ジュヴナントはようやくすべての蔦を切り落とすことに成功した。
肩で息をしながら、ジュヴナントはがくりとひざを落とした。
ジュヴナントのまわりには計五体のマンイーターがいた。どこまでがはじめからいたもので、どこからが集まってきたものかは分からない。
マンイーターたちは、不服そうに斬られた蔦のあとを動かしているが、それ以上のことはできなかった。何日かすればまた新たな蔦が生えるのであろうが、それはジュヴナントには関係のないことだった。
それよりも、この騒ぎを聞きつけて、新たなマンイーターや他のモンスターが現れることの方が脅威だった。
急いでこの場を離れなければならない。
ジュヴナントはようやく立ち上がると、重い体を引きずりながら、さらに森の奥へと歩を進めた。
「ふぅ…」
ジュヴナントは、ため息とともに木の幹に沿って体を滑らせた。そのまま、大木の根もとに腰を下ろす。
彼の足下には、かつて大トカゲだったものの残骸が転がっている。
だが、彼の体に蓄積された疲労もはや限界に達しようとしていた。
この森に入ってから、一体どれだけのモンスターを倒したのだろう?
身を守るためとはいえ、無益な血を流したとも言えなくもない。
『何をしてるんだ、おれは…』
心の中で自嘲気味に呟く。
ジュヴナントは、この森に入ってから、休むことなくただひたすらに森の奥を目指していた。
理由は分からない。ただ、その方向に何かがあると感じるのだ。
だが、今となってはそれも錯覚だったのかもしれない。
疲労が全身を包み、もうどうでもいいという感じだ。
ジュヴナントはそのまま眠りに落ちた…。
「う…ん…」
ジュヴナントは、頭を振って眠気を追いやると、ゆっくりと目を開いた。
やわらかな光がジュヴナントを包んでいた。
目を覚ましたジュヴナントは、一瞬、自分のいる場所を疑った。
ここは森の深部のはずだった。森の木々に遮られて、太陽の光もろくに射し込むことのない場所のはずだ。
ジュヴナントはあたりを見回し、そして、思わず声を上げそうになった。
輝いていたのは、ジュヴナントの風の指輪だった。
銀の指輪の小さな白い石が、今はあたり一面を白く染め上げるほどの、まばゆい光を放っていた。
「いったいなん…」
そして、ジュヴナントは言葉を飲み込んだ。いや、言葉を続けることができなかった。
さらなる驚異が、彼の目の前にゆっくりと現れようとしていた。
ジュヴナントの指輪の光に誘われるように、巨大な光の固まりが突然ジュヴナントの目前に出現しようとしていた。
それは、おぼろげな輪郭を持っていた。
驚いて声も出ない彼の目の前で、やがて光がゆっくりを収束を始めた。
と同時に、その形が明らかになっていく。
「あぁ…」
それを見上げたまま、ジュヴナントは小さくうめいた。
それは巨大な塔だった。
二抱えもある大きな石が、天へむかって規則正しく積み上げられている。
古びた石壁の外壁には、緑のツタが優雅に巻きついていた。
正面の階段の奥には大きな入り口があり、さらにその奥は香りと光に満ちているようだった。
「おや、またお会いしましたね」
二羽の鳥の彫刻が立ち並ぶ塔の入り口から、一人の青年がゆっくりと歩みでた。
「あ、あなたは…」
ジュヴナントは記憶の糸をたどった。
彼に会うのはこれが二度目であった。だが、決して間違えようがなかった。
肩まで伸びたまっすぐな銀髪。身を包むゆったりとした薄い蒼色の服。手にした小型の竪琴。
だが何よりも、左がエメラルドグリーン、右がサファイアブルーのヘテロクロミア。そのたぐいまれなる容姿を忘れようはずもなかった。
「クレスタさん!」
名を呼ばれた吟遊詩人は、微笑んで竪琴を軽くかき鳴らした。
「でも、なぜクレスタさんがここに…? いや、それよりも、この塔はいったい?」
ジュヴナントには分からないことばかりであった。
「とりあえず中に入りませんか? 春の女王も待ってますから」
「春の女王、ですか…?」
訝しみながらも、ジュヴナントはクレスタの後に従って塔への階段を上った。
- つづく -