森の木の葉がごうごうと音をたててなった。
『そんなことって…』
すべて、クレアも一度はその名を耳にしたことがある人々だ。そして、何より、あの神殿…。
「ヒュロース・ナーライム!」
エンターナが驚いた声で叫ぶ。
「知ってるの?」
クレアが尋ねる。エンターナは頷いた。
「ほら、前に、ここに人間が訪れたのは三十年ぶりだって言ったろ? その三十年前に訪れたって人が、ヒュロースさんなんだ」
「…そうですか…」
そう言って、フィルセルナは弱く優しく微笑んだ。
その目は遥か遠くを見つめている。
「フィルセルナ様、さっき半数は戻ってきたって言いましたよね? それは…」
明らかに、エンターナはヒュロースの名を期待していた。だが、その問いに答えたのはフィルセルナではなくクレアだった。
「タルカサス・ウィンとカーラ・スウィーム…ですね?」
ベルタナスのタルカサスは今でも有名であるし、カーラの名は師匠から聞いている。
「そうです」
フィルセルナは静かに頷いた。その言葉に感情はない。
「そんな…」
シンフィーナが手で顔を覆う。
三十年前の日々がまぶたの奥にフラッシュバックする。その時の彼の青鎧の輝きと髪の蒼さは忘れようもない。なのに、それはもう二度と見ることができないものなのだ。
三十年前、ヒュロースが何故にこの地を訪れたのかをクレアは知らない。だが、再びこの地を踏んだ自分を思えば、運命というものを信じたくもなる。
「…再び、魔王が復活しようとしています。いえ。もしかしたら、もう誕生しているかもしれません」
フィルセルナは、クレアを見つめたままはっきりとそう言った。
「そして、再び神殿に呼び集められた者がいる…。新たな魔王と戦うために…」
口の中で呟いた自分の言葉に、クレアは身震いした。
「クレア、いったい…?」
エンターナが、クレアとフィルセルナを交互に見ながら言った。フィルセルナは何も言わないで静かに立っている。
「ん…。どうやら、あたしが今回の四人のうちの一人らしいってこと…ね?」
「えっ…」
驚きの表情を浮かべるエンターナとシンフィーナ。そして、フィルセルナが小さく頷く。
「それに、ジュヴナントとレキュルとヤンも…っていっても知らないだろうけど。なるほどね…。師匠様がここに来れば神殿のドラゴンのことが分かるって言ったのは、そういうことだったのね」
クレアは自嘲気味に呟いた。目を上げる。そこには、フィルセルナの端正な顔とエンターナとシンフィーナの心配気な顔があった。
現実は受け入れなければならないのだろう。だが、自分を落ちつかせるためにはいくばくかの時間が必要だった。
「私は、とりあえず師匠の…ルーンヴァイセムの所へ戻ります。…じゃあね、エンターナ、シンフィーナ。また会いましょ」
「ちょっと、そんな、クレア…」
だが、次の瞬間、クレアの姿は光に包まれて消えていた。瞬間移動の呪文だ。
「あーあ、行っちゃった…」
エンターナが青い空を見上げて呟く。
「ふふっ…。まったくルーンヴァイセム殿から聞いていたとおりの人ですね」
緩やかな風の下、フィルセルナは美しいその顔に穏やかな微笑みを浮かべた。
「本当に、どこ行ってるんだろ…?」
そう呟いて、何軒目かの酒場を後にする。
どうやら、ルーンヴァイセムは、ここラーサルトの街にはもういないようだった。
クレアがこの街を出てから二週間近くがたっている。ルーンヴァイセムがまだいる方が不思議というものかもしれない。
「しかしなぁ、どこっていう心当たりもないし…。とりあえずはミトスまで行ってみますか…」
ラーサルトの遙か東方の街ミトス。ベルタナス王国の西の国境を形成する街へと、クレアは再び跳んだ。
クレアはミトスの何軒目かの旅篭屋の扉をくぐった。
「いらっしゃい」
主人の威勢のいい声が聞こえる。だが、ここにもルーンヴァイセムはいないようだった。
「ここもだめか…」
クレアはため息を一つついて旅篭屋を後にする。
「まったく、師匠様ってば、どこ行ったんだろ…?」
『…何かの時には、ロイカ=ナンタのカーラを訪ねるとよい』
ルーンヴァイセムの言葉が、頭の中に思い起こされる。
「でもねぇ…」
クレアは小さく呪文を唱えた。クレアの体が春の風に乗って空中遥か高くに浮かぶ。浮遊は便利な呪文だが、唱えるのに時間がかかるのが難点だ。
小さくなった街を足下に敷きながら、クレアは遠い北東の大森林の中に小さく顔をのぞかせている離れ山<ロイカ=ナンタ>を眺めた。ロイカ=ナンタは、浅い緑色に染まった森の中に独りひっそりとたたずんでいる。
「あそこまでは、けっこうあるわね…」
クレアは呟いた。ふと目を下にやる。その時偶然、ナムラからミトスへと続く街道の途中で、誰かがオークの一群に襲われているのが目に入った。
「何よ、あれ!」
クレアはその場所に向かって、急降下した。
「おい、ちょっと分が悪いんじゃないのか?」
ショートソードを振りまわしながら、ヤンはキリアーノに向かって叫んだ。
「そうみたいですね」
のんきなものだ。キリアーノは喜々として斧を振るっている。その度に、オークの首が飛ぶ。
だが、ヤンにはそんな余裕などない。もともとこういう戦いは得意でないのだ。
「いてぇな、このっ!」
技量では彼らの方が上であった。が、なにぶんオークの方が数が多い。不利な形勢はいかんともしがたいものであった。
そんな時である。
カッ!
突然閃光がきらめいたかと思うと、激しい爆音とともに、何人かのオークが吹き飛ばされた。
「まったく、だらしないわねえ」
空中から声がした。二人は慌てて空を見上げる。
そこには、微笑みを浮かべた一人の若い女性が白っぽいローブをなびかせて浮いていた。
キリアーノがさっと身構える。だが…。
「クレア!」
ヤンは思わず叫んでいた。
- つづく -