「ちょっと待ってくれよ。それじゃ、何のことだかさっぱり分からない」
ヤンは慌てて尋ねた。
「一ヶ月ぐらい前になります…」
静かに、キリアーノはことの顛末を話し始めた。
彼の話によれば。
一ヶ月ほど前、黒がね連山のドワーフの族長グワイリが老衰のために亡くなった。そして、その後を継いだのが、現在の族長グルーノムである。
グルーノムは、黒がね連山のドワーフの中では絶大な支持を得ていた。
何の問題も起こらないはずであった。
ところが、ある日、一人の男が黒がね連山のドワーフの館を訪れた。その者は茶のフードを目深に被り、顔ははっきりとは分からなかった。彼は悠久の山脈<トーラ=デ=ナンテ>から来た鍛冶の者の一族と言った。
その男は一振りの斧を携えていた。それは片刃の漆黒の斧で、刃の中央には大きな赤い宝石が埋め込まれていた。柄にはドラゴンが巻きついている装飾がなされており、刃には細かい彫刻が施されている。誰の目にも、まれに見る名品であることは間違いなかった。
彼は、その斧をグルーノムの族長就任の祝いに献上すると言ったのである。
グルーノムが一も二もなくその申し出を受けたのは言うまでもない。それほどまでに、その斧はすばらしかったのだ。
そのことに関しては、誰もグルーノムを責めることはできない。その場にいた誰一人として、反対する者はなかった。
しかし、異変はその時から始まったのだ。
次の日、グルーノムは麓の街フェルバの人間に対して、これまでの商品の取り引きの値を大幅に上げるむねを通告した。すぐに、フェルバから使者が訪れたが、グルーノムは頑として取り合わなかった。
フェルバの街は大きな打撃を受けた。フェルバに住む商人は、黒がね連山のドワーフから買い取った武器や装飾品を、港を通して世界中に運ぶことによって富を得ている。だが、グルーノムの通告した法外な値で仕入れたのでは、買い手が付かない。
同じ危惧は、黒がね連山のドワーフたちも抱いていた。高い値がつくのは嬉しいが、品が売れなければ、その値は何の意味も持たないからだ。
だが、グルーノムはドワーフたちに言った。
「心配する必要はない。品はこれまでのように、いや、これまで以上に売れるだろう」
そして、事実その通りにドワーフたちの作った武器や装飾品は売れたのだ。
ただし、その相手はフェルバの人間ではない。かつてグルーノムに立派な黒の斧を送った男である。
彼は、しばしばグルーノムのもとを訪れては、ドワーフたちの作った品を大量に、しかも高価な値で買い取っていった。
その結果、ドワーフたちの懐にはこれまで以上の黄金が入ることとなった。そして、フェルバとの取り引きがなくなったことについて文句を言う者は、しだいに少なくなっていった。
さらには、自分たちの仕事に誇りを持って集中できるようになったドワーフにより、近年まれに見る名刀や堅固な鎧が作り出されていったのは皮肉な事実である。
しかし、これらのことをすべてのドワーフが無条件に喜んだわけではなかった。
特に、キリアーノはグルーノムに斧を献上した茶のフードを被った男をまったくといっていいほど信用していなかった。
あれほどの武器や防具を何に使う気だろう? そんなにも多くの品を買うお金は、いったいどこから出ているのだろう? あんな値で買ったのでは、商売ができるはずもない。
そして、族長グルーノムが変わったのは、あの斧を受け取ってから…。
しだいに、キリアーノの疑惑は確信へと深まっていった。
あの斧こそが、すべての元凶である、と。
キリアーノは仲間たちの目を逃れては、密かにフェルバの街を訪れていた。
街は相変わらずの賑わいだった。
フェルバの街の商人たちは、南方の品々を扱うことにより何とか生計を立てていた。
しかし、街の人々のキリアーノに対する態度は、やはり以前とはどことなく違ってきていた。ドワーフと人間の間がしだいに離れていっているのは、キリアーノの目にも明らかだった。
だが、そんな中で古くからの友人の一人であるメイル・カラムだけは違っていた。
ある日、キリアーノは思いきってメイルに相談をもちかけた。あの斧を盗み出すことができるような人間を知らないか、と。
「うん。一人だけ知っているよ」
メイルは笑って答えた。
「名前はヤン・コートランド。昔からの友人さ」
「ほ…本当かよ、その話…」
ヤンは目を見開いたまま立ち尽くした。
「突然には信じてはもらえないかもしれません。…しかし、今話したことはすべて本当です。どうか、協力してもらえませんか?」
キリアーノの声は真剣だった。それはヤンにもよく分かる。
『しかし…。メイル、もしかして、おまえはそこまで知ってておれにあの手紙をくれたのか…? おれが『エイリアムの遺産』の話を聞いて黙ってられるわけないってことも…』
「お願いします」
再びキリアーノが頭を下げる。
「…いいよ。受けるよ、その話」
ヤンの言葉に、キリアーノは慌てて頭を上げた。
「ただし…」
だが、ヤンは言葉を続けた。キリアーノの顔が一瞬不安げに曇る。
「その、ドワーフの洞窟ってとこまでは案内してくれるんだろ?」
ヤンは軽くウィンクした。
「うわっ…狭いな…」
湿った岩に足を取られそうになりながら、ヤンは思わず声をもらした。
「気を付けてください」
後ろを振り返ってキリアーノが言う。
あたりは闇に包まれていた。大きく欠けた月がわずかに彼らの足元を照らしているに過ぎない。
ヤンには、前を行くキリアーノの姿がぼんやりとしか分からなかった。
だが、キリアーノにとってはそうではない。ドワーフは暗闇の中でも、わずかの光さえあればものを見ることができる。これも人とドワーフの違いの一つだ。
彼らの目の前には狭い岩戸が口を開けていた。
キリアーノは躊躇せずその中に入っていく。仕方なくヤンもその後に続いた。
「…っと」
足元の石につまずきかける。
ヤンはこんな暗闇の中、何もものが見えない自分を恨めしく思った。
まだ、ドワーフの洞窟、グルーノムの館に入って間もないのに、これでは先が思いやられるというものだ。
「忍び込んでいる以上、松明を灯すわけにもいかないんですから」
キリアーノの言い分はもっともだった。だが、これでは『エイリアムの遺産』はおろか、斧すら見つけることができそうもない。
『何か、自信なくすよな…』
ヤンは心の中で呟いた。
『ま、今さら後悔しても遅いか…』
自分たちがやろうとしているのは盗賊行為である。もう、後には戻れまい。
『そのうち、出番もまわってくるさ。…もっとも、それが絶望的な場面じゃなきゃいいんだけどね…』
そんなことを考えながら、ヤンはおとなしくキリアーノの後についていった。
岩の通路は数百メートル先でまばゆいばかりの灯りの通りにつながっていた。
キリアーノはそこで突然立ち止まった。
「ここから、いよいよ本当の館の中に入ることになります。もう、闇は姿を隠してはくれませんから。十分に気を付けてください」
今まで彼らが通ってきた道は、すでに使われなくなって久しい、忘れられた道の一つであった。キリアーノはこういう日のためにそんな道をいくつか見つけておいたのだ。
『なるほど…』
ヤンは自分の見当違いに気付いた。
『ま、確かに、いくらドワーフだって一日中真っ暗な所で生活したいとは思わないよな』
「行きましょう」
そう言って、キリアーノは光の中へと足を踏み出していく。皮のチュニックの紐を結び直しながら、ヤンもその後に続いた。
大きな不安とほんの少しの希望。それらが無言で心の中を舞っていた。
- つづく -