クレアは黒騎士を睨みつけていた。そして、ロイアルスもまたクレアを見ていた。
『あいつの狙いは…あたし!』
クレアはそう確信した。
ロイアルスがクレアに向かって足を踏み出す。
『今なら…』
精霊を介することのない魔法ならば、あるいは黒騎士にも効くかもしれなかった。
昨晩しっかりと休んだおかげで、精神力はほぼ完全に回復している。
『でも…』
クレアは躊躇した。エンターナやシンフィーナの前で魔法を使うことがはばかられた。
だが、そんなことには構わず、ロイアルスは一歩一歩クレアに向かって歩いてくる。彼が歩を進める度に、泉のまわりは急速に生気を失っていくかのようだった。
エンターナは、なす術もなく立ち尽くしている。
しだいに、森を暗黒の影が支配していく。
『あたしだって…、この泉を…森を守りたい!』
何かがクレアの中で弾けた。
気付いた時には、もう呪文を唱え終わっていた。
「はぁっ!!」
クレアの手から巨大なファイヤーボールが飛び出す。ファイヤーボールは黒騎士に向かって一直線に飛んだ。
だが…
ザシャァー!
「えっ!?」
だが、ファイヤーボールはロイアルスの体を突き抜けたかのように、その後ろの泉に突き刺さっただけだった。泉が水蒸気の白煙を上げる。
ロイアルスは、まるで何事もなかったかのように、歩みすら止めない。
「…あれも、効かないの…ね…」
クレアはそう呟くと、弱々しい視線をエンターナたちの方に向けた。
「ま…まさか…、君が…」
エンターナが驚きの目でクレアを見つめる。
「…ごめんなさいね。別に、騙すつもりはなかったの…。もっとも、できれば知られたくなかったけど…。でもね…」
そう言って、クレアは視線を再び黒騎士へと移した。
「…でも、あたしだって、こんな美しい森が破壊されるのを、黙って見てなんかいられないもの…」
「クレア…さん…」
シンフィーナが呟く。
クレアは口の端にふっと笑いを浮かべた。
「…あんな呪文じゃ効かないいらしいけど…」
クレアは苦々しげに呟いた。
認めたくはないが、今の実力ではどうあがいても勝てそうもない敵なのだ。
「なら…」
屈んで木の棒を拾い上げる。手頃な長さだ。
「いくよっ!」
逃げるつもりはない。
一声叫ぶと、クレアは木の棒を構えたまま黒騎士に向かって駆け出した。右足に激痛が走る。だが、そんなことに構ってはいられなかった。
ロイアルスが立ち止まる。
クレアが呪文を唱えた。その瞬間、木の棒は炎に包まれ、火の剣と化した。
クレアが火の剣をかざして大きく跳ぶ。
ロイアルスも長剣の柄に手をかける。
「クレア!」
エンターナが叫ぶ。
ロイアルスの剣が一閃した。
だが、ロイアルスの剣は、クレアを捉えることができなかった。
ロイアルスとの間の空気の壁。それがクッションになって、クレアの体はロイアルスの遥か背後、泉の目の前まで弾き飛ばされていた。
「…エンターナ…?」
クレアは足を引き摺りながら、泉を背にして立ち上がった。
「…うまくいけば、あいつに一矢ぐらいは報いれるかと思ったんだけどね…」
クレアはそう呟いて、微笑んだ。
あのタイミングでは、ロイアルスに火の剣を叩き込むことぐらいはできたかもしれない。しかし、クレアも無事では澄まなかったであろう。
「でも、これじゃぁ呪文も使えないし…。剣の使い方でも習っておけばよかったかな…?」
先程ならまだしも、泉を背にした今となっては、火の呪文を使うことは、いたずらに森を破壊することにつながりかねない。うかつに使うことはできなかった。
と、その時。
バッ…シャァァー
突然、まわりの地面がわれて水が吹き出した。水は厚い壁となって、クレアとロイアルスのまわりを囲んだ。
エンターナのきざんだ地面からシンフィーナが水を呼び出し、シンフィーナの水の精霊をエンターナの風の精霊が支えているのだ。
「…エンターナ…シンフィーナ…」
「これなら、思う存分火の呪文を使えるだろ?」
エンターナはそう言って笑った。
クレアはまわりを囲む水壁を見渡した。
「…ありがとう!」
クレアはロイアルスを睨みつけた。すでに、黒騎士もクレアの方に向き返っている。
「アクラ テウィル サイタ ナン…」
クレアが呪文を詠唱する。それにしたがって、火球がクレアの腕の中で大きさを増してゆく。
黒騎士も剣を構える。
「いけぇーっ!!」
クレアは全力で火球を放った。
ロイアルスが剣を引く。
巨大な火球が水壁の間を走り、まばゆい閃光があたりを覆った。
水壁の間は狭い。避けることなどできない。
だが…。
「そ…そんな…ことって…」
クレアは自分の目を疑った。
火球は黒騎士の剣で受け止められていたのだ。
ロイアルスが剣をそのまま横に薙ぐ。
「えっ!」
剣によって受け止められていたエネルギーが開放さる。それは水の壁をも粉砕しながら、クレアに向かって一直線に迫った。
「クレア!」
「クレアさん!」
エンターナとシンフィーナが叫ぶ。
避ける間もなかった。クレアの体がエネルギー流に飲まれ、そのまま泉へと吹き飛ばされる。
『なっ…これでも勝て…ない…の…?』
朦朧とした意識の中で、クレアは呟いた。
だが、クレアの体がちょうど泉の上に達した時だった。
不意に、泉の中からまばゆい閃光が立ち上った。
クレアの体は一瞬のうちに泉から吹き上げる光柱の中に飲み込まれた。
『え…』
クレアは暖かい光の中に浮いていた。水の粒がクレアのまわりを輝きながら舞っていた。
『え…、いったい…?』
水滴はクレアの首のまわりをまわりながら輪となり、輝きを強めた。光が閃光となる。
次の瞬間、クレアの首には小さな滴の形をした透明なアクアブルーの首飾りがかかっていた。
『これって…?』
「あ…ああ…」
エンターナとシンフィーナは、泉の突然の閃光を驚きの眼差しで見つめていた。
二人の顔を照らす光が強くなっていく。
光が消える。
クレアは泉の上に浮いていた。
淡い光を放つ首飾りが舞い、不思議な力がクレアの中に満ちあふれていく。
『今なら…!』
クレアはかっと目を見開いた。
両腕の中に光球が発生し、一気に大きさを増していく。
「…っけぇーっ!!」
ロイアルスに向かって思いきり腕を振り下ろす。腕の先から光があふれ、ロイアルスに向かって真っ直ぐに伸びていく。
暗黒をも照らす聖なる光。
光の帯がロイアルスを包み込んだ。
その瞬間、ロイアルスは森から消えていた。
広がる光は、そのまま、森に残った影をも払っていく。
生気が広がっていく。
「…やっ…た…」
クレアは意識を失った。
そのまま、泉へと落ちていく。
「危ない!」
すんでの所で、エンターナの風がクレアの体を支えた。風の精霊は、そのままクレアを泉の脇に横たえる。
エンターナとシンフィーナが駆け寄った。
「よかった…。無事みたいだわ…」
シンフィーナが涙声で言う。エンターナも静かに頷いた。
クレアの胸では、透明な水の首飾りが太陽の光にまぶしくきらめいていた。
「これは…。いったい…?」
エンターナには分からないことばかりであった。
突然の黒騎士。泉の光。そして、この首飾り…。
だが、彼らは知らなかった。
この泉の底に人知れず静かに眠る石の台座を。そして、そこに刻まれている言葉を…。
「おや…」
ザナーガは薄笑いを浮かべた。
彼の作った結界は何の役にも立たなかったのだ。
目の前には三人のエルフが立っている。三人とも裾の長い白の服を着ていた。
「すぐにこの森を立ち去りなさい」
真ん中に立つ長身の男が静かにそう言った。
彼は、長い銀髪と切れ長の青い目、それに有無を言わさぬ迫力と人並外れた威厳を持っていた。
「キッヒッヒッヒ…。これは珍しいお方にお会いしましたなぁ。エルフの長上王なんて、めったに拝見することができないそうですからねぇ」
そう言って黒術師ザナーガは笑った。
「きさまっ!」
右側の男がザナーガに掴みかかろうとした。だが、中央の男がそれをとめる。彼は再びザナーガに向かって言った。
「今すぐここを立ち去るのです。でなければ、あなたの命は保証できませんよ」
「キッヒッヒッヒ…。そいつは恐ろしいですな。もっとも、私もエルフの長上王なんかと、ことを構えるつもりはありませんからねぇ。それに…」
そう言って、ザナーガはちらりと森の奥を見た。
「…旦那も、帰ってしまったようですしねぇ」
その言葉に、長上王が眉をしかめる。
「それでは…。キッヒッヒッヒ…」
笑いながら、ザナーガは黒い煙に包まれると、その場から姿を消した。
その直後、森を首飾りの光が満たしていった。
「フィルセルナ様。本当に、あの者を行かせてしまってよかったのでしょうか? やはり、ここで討っておいた方が…」
光が収まってから、左側にいた男が長上王と呼ばれる男に向かって尋ねた。
「いいのですよ。あの者ぐらいを討ったところでどうなるものでもありません。それに…」
そう言って、エルフの長上王フィルセルナは森の切れ間から青空を見上げた。
明らかに、この白銀の森にも世界の波が押し寄せていた。時代が大きく動こうとしていた。
「本当の闘いは、まだこれからなんですから…」
- 第5章おわり -