「へぇ…。こんな所があるんだ…」
エンターナに連れられるまま、クレアは森の奥深くの小さな泉のほとりに立っていた。
ここはデーマ湖のすぐ近く。岩の巨人の現れた場所から数十キロは離れているだろう。だが、時間はほとんどたっていない。
あの後、エンターナが何かを呟いたのと同時に、あたりを風が包み込み、二人を一瞬の内にここまで運んできたのである。
それはクレアたちが使う呪文とは異なっていた。
精霊使い…。
おそらくあれは風の精霊だろう。このように人を運ぶだけでなく、岩の巨人の動きをとめ、なおかつ粉々に砕くことさえもできる。
それは、クレアにとっては未知の力だ。
『でも…』
と、クレアは思う。
『エンターナに会えたのは幸運だったわ…』
確かに、この泉はデーマ湖からさほど離れているわけではない。しかし、巧妙にカモフラージュされている彼らの住居を見つけることは、クレアにとっても至難の業であったろう。
ただ、気を付けなければならないのは、魔法使いであることがばれないようにすることだ。彼らは、破壊をともなう、特に火の魔法を嫌う。もっとも、それは森を愛するエルフにとっては当然のことなのだろうが。
「シンフィーナ、帰ったよ」
エンターナが大声で叫ぶ。
と、木陰から一人の少女が姿を現した。
「…!」
クレアはその姿に思わず息をのんだ。
クリスタルブルーの髪に、雪花石膏のように白い肌。瑠璃色の薄手の服に身を包んだ彼女は、たとえようもない美しさと、ガラスのようなか弱さをも身にまとっていた。
「兄さん…?」
その女性はエンターナを見、怪訝そうな目でクレアを見た。
「心配ないよ、シンフィーナ。この人は悪い人じゃない。それに、ケガをしているんだ」
その言葉にシンフィーナは安心したようだった。クレアの近くまで来ると、右足を手に取った。
「…これなら大丈夫よ。ただくじいただけみたいだから。いい薬草があるの。少し待っててね」
シンフィーナはそう言うと、再び森の中へと入っていった。
クレアは言葉もなく、その様子を見ていた。
「ははっ…。気にしなくていいよ。なにしろ、ここに人間が訪れるのなんて三〇年ぶりぐらいだからね。シンフィーナも驚いただけさ」
エンターナは、笑ってそう言った。
「…あなた、精霊使いだって…言ったわよね…?」
クレアは、おずおずとエンターナに尋ねた。
「ああ、そうさ。ぼくは風の精霊使い。で、妹は水の精霊使いさ」
「えっ…、妹さんも?」
「別に驚くほどのことじゃないよ。ぼくたちエルフにとって、精霊は友だちみたいなもんだからね。…ここはいい所さ。風も水もたっぷりある。こんないい所は他にはないよ。いつでも精霊たちの息吹きが感じられるんだ」
そう言って、エンターナは思いきり息を吸うように伸びをした。
クレアにはその笑顔がまぶしかった。
クレアには精霊を感じることはできない。クレアだけではない。ほとんどの人々はその力を持たないのだ。エンターナやシンフィーナなどの限られた者だけが、生まれながらにしてそういう力を持っていた。
クレアをはじめとする魔法使いは、自分の精神力を使って呪文を唱える。そして、呪文自体が力を発動させるのだ。しかし、精霊使いは精神力を使うのではなく、精霊とコンタクトをとることによって力を発揮する。精霊の力をコントロールし、方向付けするのが彼らの役目なのだ。
精霊と語り合うことのできるエンターナたちが、クレアにはうらやましく見えた。
「…だからこそ、この森を破壊するような者は許せないんだ」
エンターナの目には再び真剣な光が宿っていた。
その言葉に、クレアの胸は痛んだ。
魔法使いであることを隠している自分に、後ろめたさを感じずにはいられない。
「あったわーっ!」
その時、シンフィーナが木陰から駆け出してきた。顔を上気させ、息を切らしている。
「ほら、これよ」
シンフィーナは、嬉しそうに右手に握った薬草をクレアに見せた。
「これさえつければ、すぐによくなるわ」
そう言いながら、シンフィーナは薬草を大きな葉に包み、クレアの右足に当て、細い蔦で縛った。
「二・三日もすれば、まるで嘘のように治っているはずよ」
シンフィーナは微笑みながらそう言った。
「あ…ありがとう」
複雑な思いに心を揺らしながらも、クレアはシンフィーナに心からお礼を言った。
「こっち」
エンターナがクレアの先に立って、彼らの家へと案内してくれた。
「あれだよ」
エンターナが森の中の一本の大きなナルの木を指差す。
クレアには最初、何のことだかさっぱり分からなかった。
「え…? えーっ! 本当に!」
クレアは驚いて声を上げた。
ナルの巨木が左右に大きく枝を広げている。真横に突き出した太い枝々の上に、木の葉に隠れるかのようにしてエルフの住み家があった。木全体には深い緑の葉が茂って、一見しただけではそれと分からなくしていた。
あっけにとられて木を見上げるクレアの様子を、エンターナはおもしろそうに見ていた。
「兄さん、どうしたのよ? 早く上がってもらったら?」
木の上の木の葉の間から、シンフィーナが顔を出す。
「分かった。今、行くよ」
エンターナはシンフィーナに向かって叫び返すと、クレアの方に向き返った。
「さて、行きましょうか?」
エンターナがいたずらっぽく笑った。
その晩、クレアはエルフの家で夜を明かした。
エンターナとシンフィーナは、多くの不思議な話を知っていた。
彼らの話してくれる物語を聞きながら、クレアはいつしか眠りに落ちていた。
チチチチ…
チュン…チュン、チュン…
小鳥の鳴き声と木洩れ日の光の中で、クレアは目を覚ました。こんな爽快な目覚めは久しぶりだ。
「あ…? …エンターナ? シンフィーナ?」
部屋の中にいるのはクレア一人だけだった。
…ははっ…
外からエンターナの声が聞こえた気がした。
『…もう、下に降りているのかしら?』
おそるおそる枝葉の影から首を出し、外の様子を見てみる。
「あ…」
木の下にはエンターナとシンフィーナがいた。だが、彼らだけでもなかった。
この森に住む多くの小鳥や獣たちが二人のまわりに集まっていた。
朝日の中、クレアには皆が楽しそうに話し合っているように見えた。エンターナとシンフィーナの、そして小鳥や獣たちの笑顔が輝いていた。
やがて、エンターナがクレアの姿に気付いたようだった。
「おはよう」
エンターナが笑いながら言う。
クレアは苦労しながらも、やっとの思いで木の上の部屋から地面に降り立った。
「おはよう!」
大声でクレアも二人に叫び返した。
その時だった。
ザザッ…
ババババッ…
エンターナとシンフィーナのまわりに集まっていた小鳥や獣たちが、まるで蜘蛛の子を散らすかのようにして逃げていった。たちまち、木の下に残されたのは三人だけとなった。
「え…。まさか、あたしのせいじゃないよね…?」
クレアが不安そうに尋ねる。
しかし、エンターナもシンフィーナも泉の方を向いたまま、微動だにしない。
「ねえ…」
ぞっ…
「!」
今度はクレアにも感じることができた。肌の上から、刺すようにして染みいってくる寒気。これが、小鳥や獣たちを怖がらせ、エンターナやシンフィーナをして身動きを許さないもの…。
あの泉。そこに何かがあるのは間違いない。
「兄さん…」
「いったい、何だっていうんだ…」
エンターナの額には冷や汗が吹き出していた。
泉のある方向から緩やかな風が吹いていた。風が草を撫で、クレアの髪を払っていく。
「これって…」
クレアにとっては、その感じは初めてのものではなかった。
- あの神殿のホワイトドラゴン!
あの時と同じ。いや、正確には少し違うか…?
でも…。
クレアは泉に向かって駆け出した。
「あっ!」
「待って!」
エンターナとシンフィーナが叫ぶ。だが、クレアは立ち止まらなかった。
確かめなきゃ!
森の中を駆け抜ける。
ザッ…
左右の木立がきれた。
クレアは止まった。風だけが吹き抜けていく。
泉だ!
ただ一つを除いて、昨日とは何も変わってはいないのだ。だが、それは昨日初めて見たあの美しい泉とはまったく異なって見えた。
泉全体を重い空気が覆っている。それはすべて目の前の水辺の一点から始まっているのだ。
そこでは巨大な黒馬が水を飲んでいた。
そして、その脇には漆黒の鎧の騎士…。
彼は身動き一つせずに水面を見つめていた。
あいつが…。
他には生き物の気配すら感じられない。
黒騎士の存在が、この泉のまわりを死の世界にしてしまったかのようである。
「クレア…」
後を追いかけてきたエンターナとシンフィーナも、その場の雰囲気に言葉を失った。
「何てこった…」
エンターナが歯ぎしりをする。黒騎士の発する波動は、これまでに彼らが出会ったいかなるものをも遥かに凌駕していた。
しかも、それは少なくとも彼らの味方となるものではないのだ。遥かな魔の力を持つ、敵…。
やがて、黒騎士も彼らに気付いたようだった。
黒騎士ロイアルス。
それが彼の名であった。
突然、エンターナが何か呟いた。それは言葉にはならなかった。しかし、クレアには分かった。
風の精霊。
エンターナは風を呼んだのだ。
泉を囲む木々が揺れ、草がたなびいた。風は鋭利な刃となって、ロイアルスに襲いかかった。
だが、黒騎士は微動だにしない。
「そんな…」
皆が目を疑った。
風はロイアルスに届くことなく、不意に空中で消滅したのだ。まるで、彼のまわりでは精霊すら存在できないかのように…。
「…どうなってるんだ…」
エンターナには、今、目の前で起こったことが信じられなかった。
「…あの人…」
それまで黙っていたシンフィーナが、ぽつりと呟いた。
「…前に…会ったことが…ある…?」
- つづく -