『逃げるしかない』
森の中にまで逃げ込めれば。岩の巨人はあの巨体である。追ってはこれないだろう。
相手が地の精霊であるというのは厄介である。
限界を知らない体力。そして圧倒的な破壊力。
そのどちらも驚異だが、さらにやっかいなのは自分の足下が地面であるということだ。
つまり、常に相手のフィールド上で闘わざるを得ないのだ。相手の源は無尽蔵であり、修復はいくらでもできるのである。
『そんなやつを、こんな状態で相手になんかしてられるわけないでしょ?』
クレアは後ろを振り返った。そして、そのまま駆け出す。
幸いなことに、岩の巨人の動きは鈍い。
だが、突然クレアの目の前に、行く手を塞ぐかのように三本の岩の柱が突き出した。
「くっ…」
クレアは慌てて立ち止まった。
柱を背にして、再び振り返る。
岩の巨人はもうすぐそこまで来ていた。
岩の巨人のような高級精霊を操りながら、低級とはいえ別の地の精霊をも操るとは。敵は並みの精霊使いではない。
おそらく、近くの物影にひそんでこちらの様子をうかがっているのだろう。
こちらから見つけだす手段は…皆無だ!
「…さて、どうする?」
クレアは自問した。
岩の巨人は大きく腕を振り上げると、クレアに向かって殴りかかってきた。
「…っと!」
素速く横に跳ぶ。
岩の巨人の腕はクレアの後ろの岩の柱を粉々に砕いた。倒れたクレアの上に岩の破片が降る。
「…ったぁい」
頭を抱えながらも、クレアは起き上がった。
「うっ…」
右足に激痛が走った。
どうやら着地の瞬間に足をひねったらしい。これでは満足に走ることができない。
岩の巨人はゆっくりと頭をめぐらせながら、次の動作に移っている。
クレアの背後に新たにいくつかの岩柱が伸びていく。
どうやら、この広場からは逃げさせてくれないらしい。
岩の巨人の攻撃は素速くはない。しかし、足を痛めた状態で、いつまで攻撃をかわし続けられるかは疑問だ。しかも、向こうは疲れを知らないときている。
「こんなときに呪文が使えないなんてね…」
岩の巨人が目前に迫る。
ヒューン…
突然、風が唸った。
「えっ…」
岩の巨人の動きが止まる。
クレアには何が起こったのか理解できなかった。
「大丈夫?」
不意に声がして、目の前に一人の若者が現れた。
「…あ…」
何かを言おうとしたクレアの前で、岩の巨人がガラガラと音をたてて崩れていく。
「もう安心だよ」
彼はそう言って微笑んだ。
クレアには、今目の前で起こったことがとても信じられなかった。
「…あっ!」
思わずクレアは声を上げた。
この耳…。
先のとがった耳が、柔らかい金髪の影に隠れている。その耳はエルフに特有の物だ。
じゃあ、この人が師匠様の言っていた…?
「…? どうしたの? あ、驚かせちゃったかな。エルフに会うのは初めて? ぼくの名はエンターナ。君は?」
クレアの前に立っているエルフは、そう言って屈託なく笑った。簡素だが美しい若葉色の服を身に付けている。彼も一般のエルフ同様肌が透き通るように白かった。身長はクレアと同じくらい。エルフの中では小柄な方であろう。
「わ、私はクレア。クレア・フェリス。あなたは…精霊使いなの?」
クレアは落ち着きを取り戻そうと努力した。。
「まあ…ね。…君に、謝らなきゃならないんだ。悪いとは思ったんだけど…、君とあの岩の巨人との闘いを、しばらく見させてもらってたんだ」
「え…。ど、どうして」
驚いてクレアは尋ねた。
「少し前に、この森の外れに炎を操る魔法使いが現れたってね、鳥が教えてくれたんだ。火は森の天敵だからね。もしそんな魔法使いがこの森の中に入ってきていたら大変だろ? だから、ここまで調べに来たんだ」
「じゃあ、あの岩の巨人もあなたが呼び出したの?」
「いや…」
エンターナの顔が翳る。彼は、森の中に視線を移した。
「…僕がここを通りかかったのは偶然さ。岩の巨人がいたのには驚いたけど。あのくらいならぼく一人でも何とかなるから。ついでに、と思って君の闘い方を見させてもらったんだ」
「どうしてそんなことを…?」
「もしも君がその魔法使いなら、きっと炎を使うはずだからね。…でも、君はそうしなかった。疑ってごめんよ。悪気はなかったんだ」
エンターナはそう言って頭を下げた。
「い…いいのよ、そんなことは…。そ、それよりも…だったら、あの岩の巨人を操っていたのは誰なの?」
どぎまぎしながらもクレアは尋ねた。
エンターナの目が真剣になる。
「分からない。きっと、その魔法使いだとは思うんだけど…」
「そ、そう?」
そんなはずはないわよ。その魔法使いは私なんだから…。
クレアは、内心そう思いながらも黙っていた。
今、自分が魔法使いであることをばらすのは得策とは思えなかった。では、あの岩の巨人はいったい…?
「ケガをしているんだろ? うちで手当てをしてあげるよ」
次の瞬間、エンターナはもとの陽気なエルフに戻っていた。
「キッヒッヒッヒッヒ…。こいつは意外でしたのぅ。あんな『風の術』を使う者がおるとは…」
白銀の森の中で、背の低い一人の男が笑った。
男は丈の短い黒のローブをまとっていた。肩まである長い白髪は頭頂まで禿上がっている。
遠くから見れば、普通の老人に見えるかもしれなかった。だが、爬虫類を連想させる程ののっぺりとした顔だちは、彼が普通の人間ではないことを十分に示していた。
彼は巨大な黒馬の横に立っていた。
馬には別の男が乗っていた。
その男は全身を立派な黒鎧で覆っていた。
黒騎士ロイアルス。
それが彼の名である。
だが、ロイアルスは何も答えなかった。
「キッヒッヒッヒッヒ…。ロイアルス様、どういたしますかね?」
男は媚びるような目つきで馬上のロイアルスを見上げた。
「何なら、もう一度、あたしがやりましょうか? キッヒッヒッヒ…。エルフ相手というのも、おもしろそうですしのぅ」
「…一人で行く…」
ロイアルスは身動き一つせずに答えた。
重い声だ。あたりの空気が身震いする。
しかし、男はそんなことには構わず、ロイアルスに向かって話し続けた。
「キッヒッヒッヒ…。そうですか。では、あたしはここで待っていることにしましょうか。なぁに、心配はいりませんよ…」
だが、男の返事を待つことなく、すでにロイアルスは馬を走らせていた。黒騎士を乗せた黒馬が森の奥へ消えようとしていた。
「キッヒッヒッヒッヒ…」
男の近くに飛んできた一羽の小鳥が、突然、雷にでも打たれたかのように燃え上がって、地面に落ちた。
「まぁ、あたしの近くには誰も近寄れませんからねぇ。そう…、この黒術師ザナーガの近くには…」
- つづく -