「…セルナ ティル フェルダ!」
クレアは呪文を唱えた。
クレアの指先から小さな炎の塊が三つ飛び出し、そのまま目標に向かって一直線に飛んでゆく。
「ウギャル!」
「ガー…ァ!」
「ギャン!」
ほぼ同時に、三頭の狼が吹き飛ばされていた。
残りの狼たちはその様子に思わずたじろいたようである。包囲の輪がいくらか緩くなった。
クレアはさらに構えを見せた。
薄暗い月夜。細い街道脇の平原。そこで彼らは対峙していた。
「…グル…ル…」
狼たちはじりと後退した。
「…まだ、やる気?」
クレアは口許に笑みを浮かべたまま呟いた。額には汗が浮かんでいる。
クレアの手の中に新たな火球が生まれる。
炎がクレアの顔を、そして遠巻きの狼たちを照らす。
緊張感が高まっていく。
突然、一頭の狼が踵を返して逃げ出した。それに続くかのように、残りの狼たちも次々と走り去っていく。
一分とたたない内に、その場にはクレアだけが残された。
「ふう…」
軽くため息をついてから、クレアは構えを解いた。
手の中の火球が消滅する。
同時に、あたりはもとの暗さを取り戻していた。
「ここんとこ、やけに敵が多いわね…」
クレアはたき火に木の枝をくべながら、かすり傷のついた腕を擦った。
今日は、野宿の準備をしようかと考えていたところを不意に狼に襲われたのだ。
テクトの街を出てから、これまでに約一週間が過ぎていた。
すでに白銀の森の端まではもう少しという所にたどり着いていた。デーマ湖までは、あと数日といった所だろう。
だが、もうこの先には街や村はない。
夜は野宿をして過ごさなければならないのだ。
気になるのは、ここのところ遭遇する敵の数である。
クレアがテクトを出た頃から、明らかに数が増えていた。数だけではない。ふだんはあまり見かけないような手ごわいモンスターまでもが姿を現すようになっていた。
しかも、その傾向は白銀の森が近付くにつれてますます顕著になっていく。
「いったい、どういうことなのかしら…?」
たき火の前に腰を下ろして、クレアは呟いた。
オレンジ色の炎がパチパチと音をたてている。
「…師匠様の言っていた、ドラゴンと関係のあることっていうのと、何か関係があるの…?」
膝を抱えたまま、クレアは炎を見つめ続けた。
「はあっ!」
クレアの腕から火球が飛び出していく。
火球はオークたちの間に落ちて四散した。何人かのオークが吹き飛ばされる。
だが、クレアはそんなことには気もかけず、先へと走り続けた。
目の端に白銀の森の姿を捉えながら、新たな呪文を唱和する。
次々と火球がきらめいてはオークたちを薙ぎ倒していた。
しかし、オークの数は並大抵ではなかった。一人であるクレアにとって、数の違いは圧倒的に不利にはたらいていた。
「あそこまで行ければ…!」
もう目前まで迫った白銀の森の木々を見ながら、クレアは全力で走った。
足下の短い草を振り切る。額から汗が飛び散る。
だが、立ち止まることはできない。
この人数で囲まれては勝ち目がないのだ。
不意に、横からオークの一人が剣をふるった。
バッ…!
クレアが跳ぶ。
剣はクレアの足元の草を薙ぎ払っただけであった。切れた草の葉が舞った。
クレアはそのまま横にいるオークに向かって手の中の火球を投げつけた。
「…モッ…」
くもぐった声を上げてオークがクレアの視界から消える。
と同時に、巨木の群が目の前に広がる。
白銀の森だ!
クレアは一本の大木を背にして振り返った。
ここなら、背後に回り込まれる心配はない。
一五~二〇人のオークが剣を片手に向かってきている。
クレアは両手を前に突き出して組んだ。
「…アクタ フェン ラ ニュアル…」
クレアの口から呪文の詠唱が洩れる。
オークたちの姿が目前に迫る。各々が剣を振りかざす。
「さあ! いけっ!」
クレアは組んでいた両手を開いた。
呪文の力が開放される。
巨大な炎の奔流が一気に放射状に広がる。
そのため、近付いていたオークたちは全員その炎の中に飲まれることとなった。
炎が消えた後、そこにはもはやオークの跡形すら残ってはいなかった。
クレアは木の幹に背をもたれかけさせたまま、滑り落ちるようにして腰を下ろした。
「…ちょっと…まずいかな…?」
額を汗がつたう。
今の一撃で彼女の精神力は底をついていた。
クレアは白銀の森の中に足を踏み入れていた。
木々は鬱蒼と茂り、どこからともなく見知らぬ鳥の鳴き声が響いている。
クレアはまわりに神経を集中させていた。
今、敵に襲われたら…。そう考えると、ぞっとする。
魔法の使えない魔法使いなど、羽根をもがれた鳥に等しい。クレアには、万が一にも勝ち目があろうはずはなかった。
「…エルフの兄妹…ねぇ…」
森の中を歩きながら、クレアは呟いた。
エルフ。
種としての起源は、人間よりも遙かに古いと言われている。
人間との外観のもっとも大きな違いは耳である。彼らの耳は人間よりも大きく、先がとがっていた。だが、ぱっと見た感じでは、人間とはさして変わらない。身長は人間よりもわずかに高いくらい。全体にほっそりとしていて、どちらかと言うと、か弱くさえ見える。しかし、寿命がないと言われるほど、彼らは長寿であった。短くとも数百年。長い者では千年以上も生きるという。しかも、年をとっても、その美しさが損われることはなかった。
その他にも、暗闇でも物が見えるとか、雪の上を沈まずに歩くことができるなど、一般的に人間よりもすぐれた資質を持っていることも知られている。
しかし、現在では彼らは着実にその数を減らしていた。理由は定かではない。
すでに、この大陸では、エルフに会ったことのある人間は少数派になっていた。
「あっ…」
草をかきわけて進んでいたクレアは、突然、森の中の小さな空き地に迷い込んだ。
太陽が空の遥か高くから小さな草原を照らしている。
久しぶりの太陽である。日差しが心地好かった。
「う…うーん…」
クレアは思いきり伸びをした。固まった体の節々がゆっくりと伸ばされていくようだ。
最高の気分。
クレアは肺に思い切り息を吸い込んだ。それは、一瞬自分がどこにいるのかも忘れさせてくれるほどの一時だった。
だが、それも束の間。
ゴ…ゴゴゴ…
突然あたりを地響きが襲った。
「な、何よ…いったい?」
クレアはあたりを見渡した。
異変は、彼女の目の前、空き地の中央付近で起こった。
地面がゆっくりと盛り上がっていく。
パラパラと土や細かい岩の破片が降る中、盛り上がった岩はしだいに人の形を成していった。手が出、足が大地を踏みしめる。
全長三メートルはあろうか。長い手をだらんと伸ばし、ゆっくりと顔をクレアの方に向けた。小さく盛り上がった頭部に、赤く不気味な二つの目が光る。
クレアは思わず身震いした。
「ど、どうして今頃こんなのが出てくるのよ…」
アース・エレメント。
この岩の巨人自体は、本体ではない。地の精霊が岩に乗り移って岩を動かし、形を成しているのだ。したがって、この岩自身を攻撃しても、直接は何のダメージも与えることができない。
アース・エレメントを倒すには、構成している岩を粉々に砕くか、この地の精霊を召喚した者よりも強い力で、精霊を精霊界に送り返すしかない。
クレアの使える最大規模の火球を用いれば、あるいは何とかなるかもしれない。
だが、精神力が底をついている今、クレアには攻撃手段がなかった。
- つづく -