窓の外で、雨が木の葉の上でパラパラと乾いた音をたてていた。
ガラスをつたって流れ落ちる雨水が、外の風景をしっとりと濡らしていた。
「ふぅ…」
街の大通りに面したバーのカウンターで、若い女性がため息をついた。白いローブに身を包んだ彼女は、肩まである黒髪に手をやりながら、独りぼんやりと窓の外を眺めていた。
魔法使い、クレア・フェリスだ。
あのドラゴンとの闘いから、すでに一ヶ月が過ぎようとしていた。
デリア=ラータ川の河口都市、ラーサルト。今彼女がいる街の名がそれである。
かなりの人口と歴史を誇るこの街は、ここ数日間降り続いている長雨に、しっとりと濡れそぼっていた。
ここ一ヶ月ほどの間、離ればなれになったジュヴナント、レキュル、ヤンらの消息を尋ねていくつかの街を巡り歩いたものの、成果はなきに等しかった。
そんな毎日にもいい加減飽き飽きしてきた頃だった。突然の長雨で外に出ることもままならない。
草木は淡い色のつぼみを膨らまし、わずかに残っていた冬の足音も、このあたりではもはや耳をすまさなければ聞えない程になっていた。だが、彼女の心は季節ほどには明るくなってはいなかった。
一目見れば、彼女が魔法使いであることは明らかだった。それを知ってか、店の中でも彼女に声をかけてくる者もいない。今は、それがありがたかった。一人でいたい気分だった。
…まったく、雨は心まで濡らすのかしらねぇ…。
がらにもなく彼女がそんなことを考えていた時だった。
「お嬢さん。お一人かね?」
後ろからかけられた声が、彼女の時間をうち破った。
彼女は素速く振り返った。聞き覚えのある声だ。
「久しぶりじゃな、クレア」
「し…師匠様!」
彼女は目を丸くした。そこにいたのは、薄いグレーのローブをまとい、手に節くれだった杖を持った白髪の老人だった。
魔法使いルーンヴァイセム。
クレア・フェリスとルーンヴァイセム。二年半ぶりの師弟の再会であった。
「そうじゃったか…」
クレアの話に、ルーンヴァイセムは嬉しそうに頷いた。ルーンヴァイセムは、クレアの横に席をとって彼女の話を聞いていた。
「師匠様は、あのドラゴンには心当たりがないのですか?」
「さて…のぅ」
ルーンヴァイセムは考え込む風を見せた。
「…うむ…もしかしたらじゃが…」
「なんです?」
クレアが咳き込んで尋ねる。
「そんなに慌てるでない。まぁ、わしの記憶に間違いがなければじゃが…、白銀の森は知っておるじゃろ?」
「シンシナ=カルランテですか?」
「そうじゃ。シンシナ=カルランテじゃ」
「その森に何があるんです?」
「まぁ、そう焦るな。シンシナ=カルランテの中ほどにデーマ湖という湖がある。確か、そのあたりにエルフの兄妹が住んでおるはずじゃ。彼らに会ってみるがいい」
「エルフの兄妹? いったい、それとドラゴンとがどう関係するんですか?」
「詳しいことは、自分で行って確かめてみることじゃよ」
「…とにかく、デーマ湖のエルフの兄妹に会えばいいんですね?」
クレアはそう言って、勢いよく席を立った。
「おいおい、もう行くつもりか?」
「ええ。善は急げですから」
「なら、もう一つ聞いておいた方がよいぞ」
ルーンヴァイセムは苦笑して、そう付け加えた。
「え?」
ルーンヴァイセムは一度深く息を吸込むと、静かに言った。
「…何かの時には、ロイカ=ナンタのカーラを訪ねるとよい」
ルーンヴァイセムが微笑む。
「ロイカ=ナンタ…のカーラ…ですか? はいっ、分かりました!」
そう言いながら、ぱっぱっと荷物をまとめる。
「聞いておかなくちゃならないことはこれで全部ですよね?」
「ああ、そうじゃが…」
「なら、私はこれから白銀の森に行ってみます。ありがとうございました」
ルーンヴァイセムにぺこりと頭を下げて、そのままクレアは店を出ようとした。が、突然立ち止まって、ルーンヴァイセムの方に振り返る。
「あ、師匠様。お勘定はお願いしますね」
クレアはルーンヴァイセムに対して精一杯の微笑を浮かべると、今度は振り返ることなく、飛ぶようにして店を出ていった。
「やれやれ…相変らずじゃわい…」
ルーンヴァイセムはクレアの後ろ姿を見送りながら再び苦笑した。
「…だが、本当の試練はこれからなんじゃよ…」
白銀の森<シンシナ=カルランテ>は、ヴェンディの西北の外れにある。クレアがルーンヴァイセムと出会ったラーサルトからは、ちょうど真北にあたる位置だ。針葉樹の森がエレザ山脈<エレザ=デ=ナンテ>の西に広がっていた。この森は、かつては大森林<グルナ=カルランテ>ともつながっていたという。もっとも、それは何千年も前のことになる…。
クレア・フェリスはテクトの街に来ていた。
エレザ山脈の西には、二つ河の平原<テン=サルバーネ=テア=プラッタス>が広がっている。二つ河の平原とは、その名の通り、ディアソータ川とカルソータ川という二つの大河に抱かれた平原である。北に白銀の森<シンシナ=カルランテ>と大呂山地<グルニカ=ナンテ>を持ち、西にエレザ山脈が厳しい稜線を見せている。北・南・西を海に囲まれているためと、付近を流れる暖流のエリカ海流のおかげで、二つ河の平原は年中穏やかな気候に恵まれていた。平原中央部には、リリア王国が王都ザネスを中心に広大な版図を誇っている。
テクトの街は二つ河の平原のやや北に位置していた。リリア王国のほぼ北東の端だ。北方の都市ミナセルから始まる大街道からはいくらか内陸部に入ったあたりである。テクトのすぐ南には、カルソータ川が平原にその姿を静かに横たえていた。
テクトからカルソータ川を北東へとさかのぼって行けば、デーマ湖にたどり着けるはずである。もっとも、それには一〇日以上の間歩き続けなければならないであろうが…。
移動の呪文を使うことのできる魔術師ならば、どんなに離れた所にでも、一瞬の内に到達することができる。しかし、それはかつて行ったことのある所、しかもその場所が明確にイメージできる所でなければならない。
クレアにとって、テクトにまでたどり着くのは容易かった。数年前のことになるが、この街は一度訪れたことがあったからだ。
だが、白銀の森となるとそうはいかない。クレアは白銀の森には一度も足を踏み入れたことがなかった。そのため、どうしてもテクトから白銀の森までは歩いて行かざるをえない。
「この街も、ずいぶん変わったわねぇ…」
街の大通りを歩きながら、クレアは呟いた。
前回の訪問は、仕事ついでだったこともあり、街はほとんど通り過ぎただけも同然の状態だった。ゆっくりとテクトの街を見てまわるのは今回が初めてだった。
町中では、古い建物が次々に取り壊され、新たな建造物に取って代わられていく光景を見ることができた。開発と発展に街全体が沸き返っているかのようだ。
だが、この街もクレアにはあまり深い感銘を与えなかった。
すべてがあまりにも当たり前過ぎて見えた。
「ま、どこも、こんなもんよね…」
それがクレアの正直な感想だった。
元々あまり人口も多くないこの街は、日の傾きと同時に、急速に寂寥感を増してきていた。
今晩の宿を求めて、クレアは通りを歩き続けた。
三日間、テクトの街に滞在した後、クレアは白銀の森<シンシナ=カルランテ>に向かって出発した。
- つづく -