突然、左右の霧が開けた。
「あぁ…」
ルシアが声にならない声を上げる。三人は足をとめた。
彼らの目の前には忽然と現れたのは、白い大理石で造られた古い祭壇であった。悠久の昔に造られてから、そのほとんどの時をこの深い霧の中で過ごしてきた建造物は、時間の流れをまったく感じさせなかった。霧にしっとりと濡れたその姿は、見る者の心を捉えるのに十分な美しさを秘めていた。
「すげぇ…」
トットがため息をつく。
「これが…、おれを、呼んでいたのか…?」
ジュヴナントはぽつりと呟いた。
「えっ?」
ルシアが尋ねる。
だが、ジュヴナントはそれに答えることなく、誘われるかのように祭壇に向かって歩いていった。
「ジュナ…」
ルシアとトットはまるで金縛りにあっているかのようにその場を動くことができなかった。そこから先は、ジュヴナントしか進むことのできない領域に思えたのだ。
ジュヴナントは独り祭壇への短い階段を上った。
正方形の祭壇の四方には太い柱が立っている。その中央には石でできた小さなテーブルのような台座があった。ジュヴナントは祭壇の中央の石の台座に歩み寄った。
石のテーブルの上には、これまでに見たこともない文字と手の形をした窪みが刻まれている。
ジュヴナントは何気なくその手形の上に自分の右手を重ねた。
シュワァー…ァァ…
突然、石のテーブルから激しく光があふれた。
光はジュヴナントの手を優しく包み、霧の空へと細くまっすぐにのびていく。
「な…」
ジュヴナントは、驚きのあまり石のテーブルから手を動かすことすらできなかった。
やがてゆっくりと光が収まると、ジュヴナントの中指には見たこともない指輪がはまっていた。その銀色の指輪は、白く瞬く小さな石をいだいていた。
「これは…?」
だが、ジュヴナントには、まだその指輪の本当の意味は分かっていない。
ジュヴナントは祭壇を降りた。
ルシアとトットが駆け寄る。
「なんだったの、今の光?」
「分からない…。これが関係してるとは思うけど」
そう言って、ジュヴナントはルシアとトットに右手を見せた。
「…指輪?」
「ああ」
「抜けないの、それ?」
脇からトットが尋ねる。
「みたいだな…」
ジュヴナントは指輪を引っ張ってみてからそう答えた。
その瞬間、ジュヴナントの背後から、突然まばゆい光が差しこんだ。
「…えっ?」
慌てて振り返って、ジュヴナントは声を失った。
「あ…あなたは…」
一人の美しい女性が祭壇の前に立っていた。彼女は、長い黒髪に小さな緑の宝石のついた額飾りをし、白銀の長い服をまとっていた。
「お待ちしておりました」
その女性は静かにそう言った。
それは、かつてジュヴナントが神殿で出会った女性、その人であった。
「ここは…?」
レキュルはあたりを見渡した。
東には悠久の山脈が天を圧するようにして迫っている。足下では、森の中からまだ細いガネリア川が流れ出ていた。ガネリア川の水源まで後わずかというところだ。
その景色には、見覚えがあった。何度となく来たことのある場所だった。ただし、それはまだジュヴナントらとパーティーを組むずっと前の話だ。
レキュルの故郷はこの近くであった。
「しかし、何だったんだ、あの闘いは…?」
レキュルは自問した。しかし、それは答など出るはずもない問いである。
レキュルは細い道をそのまま南下していった。すでに、ベルタナス王国最東端の街サクルまではあともう二・三日という所まで来ていた。
雲が多く、月の光を遮りがちな夜だった。
それは、レキュルがサクルを目指して足早に歩いていた時だった。
ザッ…
街道沿いの潅木の茂みから何かが突然現れた。
「…何者だ!」
レキュルは叫んで、腰から細身の剣レイピアを抜いた。
と、まるでその声を合図にするかのように、雲の切れ間から月が顔を出し、月光がその者を照らした。
レキュルは自分の目を疑った。
身長はレキュルとさほど変わらない。だが、鋭い赤い目、大きく裂け鋭くつきだした口。頭頂はとさかのように盛り上がり、顔の横には左右三本ずつの突起物が生えている。土色をした肌は爬虫類のそれを連想させた。神官がまとうような真っ白の服装に、太った体を強引に押し込んでいる。
異形の者 - 魔族だ。
「驚かせてしまいましたか?」
それは、涼しげな声で言った。
「ちょっとあなたにお見せしたいものがありましてね」
「何っ?」
レキュルは油断なくレイピアを構えたまま、それに向かって尋ねた。
「私は、グヮモン。これですよ…」
グヮモンは薄笑いを浮かべたまま、両手を前に突き出した。手と手の間に淡い光がともり、何かの景色を写しだしていく。レキュルはその光景に目を奪われた。
「きさまっ! どういうつもりだ!」
レキュルが今にもグヮモンに飛びかからんばかりに身構える。
「分かりますか?」
光の中に写しだされたのは、廃墟と化した村の姿であった。変わり果てた姿になったとはいえ、レキュルにはすぐにその村がどこであるのかが分かった。自分の生まれ育った村である。分からない方がどうかしている。
「きさまっ!」
瞬間、レキュルは地を蹴って飛びかかろうとした。ジュヴナントやヤンたちが見たら驚くであろうほど、この時のレキュルは自身の感情を露わにしていた。
だが、体が動かない。
グヮモンのせいだ。
「詳しいことは、そこへ行ってから話すことにしましょう」
グヮモンが新たな呪文を唱える。不意に、レキュルは世界が歪んでいくのを感じた。
次の瞬間、二人は悠久の山脈の麓のある荒れ果てた小さな村の前に立っていた。それは、先程グヮモンがレキュルに見せた光景そのもの…。
「何てことだ…」
その場に立ち尽くしたまま、レキュルは呟いた。
グヮモンに村の光景を見せられた時でさえ、心の底ではそれを疑っていた。どこかで、そんなはずはないと思っていた。だが、こうして現実に広がる風景を前にすれば、認めない訳にはいかなくなる。
「…なぜ…?」
今、彼の目の前に広がっているのは、荒涼とした廃墟であった。かつては多くの人々が行き交い、生活した場であった。しかし、今ではそんな面影などどこにもなかった。
レキュルはその場に崩れるかのように膝をついた。この村にはよき友人たちがたくさんいた。昔からの知りあいも多くいた。そして、たった一人の肉親も…。だが…どうして…?
「それでいいのですよ」
レキュルの様子を見ながら、グヮモンはさも嬉しそうに呟いた。
グヮモンは、懐から左右に大きな水かきのような飾りの付いた黒いマスクを取りだした。額には赤い大きな宝石が埋め込まれている。
グヮモンにとっては、この男の負の感情を前面に押し出させる必要があった。そうでなければうまくいかないのだ。
偶然とはいえ、ようやく見つけたのだ。これまでとは違う、今度こそ本物を! このために今までいくつの村を滅ぼしてきたことか…。もっとも、それはグヮモンにとっては余技のようなものでしかなかったが。
レキュルは、すでに完全にグヮモンの術中に落ちていた。
体どころか、すでに心すら動いてはいまい。
グヮモンは静かにレキュルに近づくと、手にしていた黒のマスクをレキュルの顔に被せた。
その瞬間から、レキュルはレキュルではなくなった。
目を見開いたまま立ち上がる。その様子をグヮモンはじっと見つめていた。
変化はすぐに現れた。
レキュルはふっとかぶりを振ると、グヮモンの方に向き返った。赤く、鋭く、それでいて涼やかな目…。グヮモンはにやりと笑った。
「グヮモン」
レキュルが声をかける。先程とは、明らかに口調が変っている。
「はっ。陛下…」
グヮモンが満足そうにひざまづく。
「戻るぞ…」
レキュルは東 - 悠久の山脈を仰ぎ見ながら静かに言った。
もはや村の跡には目もくれない。
二人は無人の廃墟を後にした。
- つづく -