ミリアーヌはよろめく足取りながらも、ようやく大森林の外れにまで到着することができた。早急に戻らねばならないが、今日はここで体力・精神力の回復を待つ必要があった。
「…ぐっ…」
ミリアーヌは、体を大木の幹にもたれかけさせたまま、痛む左肩を押さえた。
樹から降りるときにぶつけたせいだ。
このあたりには、ようやく戻ったわずかの精神力を使って軽い結界をかけておいた。普通の人間や怪物ではまず入ってくることはできまい。
大きく深呼吸する。
ようやく一息つけそうだった。
ミリアーヌは、まぶたを閉じると、そのまま眠りに落ちた。
「おや、どうしたんですか?」
突然の声に、ミリアーヌはあわてて顔を上げた。
「!」
逆光でよくは分からなかったが、彼女の目の前に立っているのは薄い蒼色の服をまとった若い男のようだった。陽光に銀髪がきらきらと輝いている。
あわてて結界を確認するが、結界はまだ有効に働いている。
「…何者だ?」
ふらつく足で立ち上がりながら、ミリアーヌはようやく声を絞り出した。
「私…ですか?」
その男はさも不思議そうに答えた。
「私はただの流れの吟遊詩人ですよ。別にあやしいものじゃありません」
彼はそう言って笑った。美しく暖かな笑顔であった。
色白のやせ気味の顔に、左がエメラルドグリーン、右がサファイアブルーのヘテロクロミア。
ミリアーヌは一瞬その笑顔に見とれた。
だが、次の瞬間、はっと気を取り直して男をにらみつけた。
「きさま、ふざけるな! 名をなのれ!」
この結界の中に入ってきたということが、この男がただ者ではないということを示している。
「私の名前ですか? 私の名前はアルバトロ・シーモア・クレスタですが」
クレスタと名のる男は、困ったようにそう言った。
ミリアーヌは男の顔をにらみつけた。
「おやおや、困りましたねぇ」
そう言ってクレスタは肩をすくめた。肩まで伸びたまっすぐな銀髪がさらりと音を立てる。
「ぐっ…」
不意にミリアーヌの肩の傷が痛んだ。膝をつき左肩を押さえる。
「大丈夫ですか?」
心配そうな表情でクレスタが尋ね、手をさしのべようとした。
「動くな!」
だが、ミリアーヌはその手を払いのけるようにして立ち上がった。
それを見て、クレスタは困ったように微笑むと、手にしていた竪琴を奏でた。
「動くなと言っている!」
だが、クレスタは竪琴を弾くのをやめない。
美しくも悲しい旋律が薄暗い森の中に穏やかに広がっていく。
ミリアーヌは我を忘れてその音楽に聴き入った。
ふと気付くと、肩の傷は完全に治っていた。
「もう大丈夫ですよ」
竪琴を引く手を休め、クレスタはそう言って微笑んだ。
「お前は…何者…なんだ…?」
ミリアーヌが呆然としたまま尋ねる。だが、クレスタはそれにはこたえず、
「あなたは純粋な人です。けれど、まだ今は思い出せないことがあるようですね。しかし、それを思い出させるのは私ではありません」
クレスタはそのまま続けた。
「今、世界では運命の歯車が急速に回ろうとしています。あなたも、その時がくれば、必要なことをきっと思い出すことができるでしょう」
そう言って、クレスタは再び竪琴をかき鳴らし始めた。
「歴史の中で、あなたは重要な役目をはたすことになるでしょう。それは、本来ならば私の役目なのかもしれませんが。しかし、どんなことにも巡り合わせというものがあるのですよ…」
それは予言であったのだろうか? 美しい旋律がすべてを溶かすかのようにして、森の中に甘く切なく広がる。ミリアーヌはいつしかその旋律の中に身を任せていた。
ふと気付いたときには、クレスタの姿はもうなかった。
そして、ミリアーヌの記憶の中からも、クレスタのことは消えていたのである。
ジュヴナント、ルシア、トットの三人は、コムラタ川に沿って北へと歩き続けていた。道は次第に上り坂になり、急速に険しさを増していた。その左右には、永遠に続くかと思われる大森林が広がっている。
山肌に沿って冷たい北風が吹きつけていた。
不意に左右の森がきれた。
最初にジュヴナントらの目に飛び込んできたのは、細い雲を身にまとい天に向かってそびえる峰々、庇護の高地<プルスクア=デ=ヤグナフォント>であった。
険しい稜線は青い空を切り裂き、遥かなる高地をくっきりと浮かび上がらせている。
そして、ジュヴナントらの目の前で大地は急激に落ち込み、足元からはさらに険しい勾配の道が続いていた。しかし、濃い霧が渓谷全体を覆い、その先はまるで見えない。
「これが、霧の大渓谷…」
迫りくるような自然の大景観。その姿に圧倒されたまま、彼らは声を失った。
どれくらいの時がたったのだろう。渓谷から吹き上げてくる風で、彼らは我に返った。
風は目指す道から吹いてきていた。
そして…。
「…見て!」
ルシアが叫んだ。
だが、叫ぶまでもなかった。全員が唖然としてその場に立ち尽くした。
霧の大渓谷を覆っている厚い霧が、ゆっくりと左右に割れていく。まるで、彼らをいざなうかのように、霧はちょうど三人が並んで通れるほどの幅の道を開けたのだ。道は渓谷のはるか奥にまで続いていた。
「来い…ということなのか…?」
ジュヴナントは独り呟いた。そして、迷うことなく渓谷へと足を踏み入れていく。
「ジュナ、待って!」
ルシアとトットも慌ててその後を追った。
「…霧が…割れる…」
離れ山の中腹の館のテラスに立って、カーラは霧の大渓谷の様子を見つめていた。
「彼らを選んだ…ということなのか?」
カーラは身じろぎ一つせずに渓谷の様子を見つめ続けた。
「ほぅ…これが霧の大渓谷か」
渓谷からさほど遠くない木の上で、黒の衣服をまとった男が霧の割れるさまを見ていた。
「面白いものを見ることができたな…」
彼は、腕組みをしたまま笑った。
黒いさらりとした髪がゆれる。
日はすでに大きく傾いていた。
ジュヴナントらは霧の中にできた細い道を歩いていた。彼らが進むと、霧は背後で再び道を閉ざしていった。これでは前に進むしかない。
どれくらい歩いたのだろうか?
もう何日も歩いたような気もするし、まだ数時間しかたっていないような気もする。ここでは時間すらはっきりととらえることができなかった。
だが、一つだけ確かなことは、明らかに先へと進んでいるということだ。
ジュヴナントには、歩くにつれて前方の何とも言えない感じが少しずつではあるが強くなっていくのが分かった。
もう、誰も何も言わなかった。
- つづく -