ガネリア川の支流であるコムラタ川は、大森林の北東に位置する霧の大渓谷の麓に源を発し、そのまま大森林を縦断して南へと流れ、タトナの南でガネリア川へと注いでいる。
ジュヴナントらはカーラに教えられたとおり、一度、コムラタ川まで出てから川沿いに北上することにした。まず、離れ山<ロイカ=ナンタ>から西へ向かって進む。離れ山は大森林のやや東の外れにあり、そのまま行けばカーラに連れてこられる前の場所からは、かなり北に進んだ所へ出られるはずである。
「ちぇっ。どうせなら霧の大渓谷とかにまで連れてってくれればいいのにさ」
道とも呼べないような木々の間を歩きながら、トットが不平を洩らした。
「仕方ないでしょ。そんなこと言ったって」
生い茂る潅木を掻き分けながらルシアが答えた。
彼女自身は、あの雷撃を受けた後のことを何も覚えていないようだった。それ故、ジュヴナントは、そのことをルシアを含め他の人間には何も言っていない。
森の中を木の根に足を取られないように気を付けながら歩くことと、何日たっても変らない景色とが気分を苛立たせていた。そして、進んでいることをまったく実感させない状況が、彼らをより不安にさせるのだ。
ジュヴナントは何も言わずに歩き続けた。
「…はぁ…はぁ…」
悠久の年月を重ねているであろう大木の幾重にも重なった枝の上で、ミリアーヌはその身を太い幹にもたれかけさせたまま、荒い息をついていた。
もう、一歩も動けなかった。
あの場所からは一〇キロも離れてはいまい。ミリアーヌにはそれが精一杯だった。
「…いったい、どうなっているんだ…?」
いくらか冷静になった頭でこれまでのできごとを考えてみる。
…分からないのはあのルシアとかいう女だ。なぜ、あの女は私の雷撃をくらっても平気だったのだ? いや、正確には、どうしてあんな変り方をしたのかだ。あんな感じの者にはこれまでに会ったこともない。思いだしただけでも、鳥肌が立つ。私の呪文がまったく効かなかった…。
ミリアーヌはそこまで考えると、頭を振った。
胸の赤い宝石のついたネックレスを汗ばむ掌で握りしめる。
『これはグヮモン様に報告しなければならない…』
その時だった。
「派手にやられたようだな」
突然、声がした。
ミリアーヌは慌てて頭を上げた。
「セ…セイナ様…」
目の前に立っていたのは、ぴっちりとした漆黒の衣裳に身を包み、頭に黒のターバンを巻いている痩せた長身の男だった。
彼はまるで空中に浮かんでいるかのごとく、腕組みをしたまま細い枝の上に危なげなく立っていた。
さらさらした黒髪がターバンからはみ出している。こけたほおに一重の涼しげな目。細い唇にはうっすらと笑いが浮かんでいた。短いマントを肩につけ、腰には細身の長剣を差している。
「な…なぜ、こんな所へお見えになったのですか?これは、私がグヮモン様から直接命じられた役目。たとえ、セイナ様とはいえ…」
ミリアーヌは身構えた。
「ふっ…別に邪魔をしようという訳じゃない」
セイナは腕組みをしたまま、笑って答えた。
「では、なぜ? この件に関しては、ドゥルガ様も手を出さないと言っておられました…」
「そんなことは知っているさ。だが、おれはおれだ。グヮモンやドゥルガとは違う。さっきの闘いは全部見させてもらったよ。ま、おれはおれの好きなようにやらせてもらう」
「セイナ様!」
ミリアーヌが叫んだ。
「心配するな。邪魔はしない」
セイナはそれだけ言うと、まるで煙をかき消すかのように姿を消した。後には木の葉一つ揺れていない。
後を追おうにも、ミリアーヌは一歩も動けないのだ。
『流…影…』
ミリアーヌはこの男の仇名を思いだしていた。
やっとの思いで、ジュヴナントらは森を抜けた。
コムラタ川に沿って青い空が細長く開けていた。
それは一瞬の内に起こった。
とっさには、何が起こったのか理解できなかった。
風が吹いたような気もした。
そう思った時にはもう遅かった。
「あっ…」
その男はルシアの溝落ちに拳を叩き込んだ。ルシアの体が崩れる。そのまま、返す動作で男はトットの首筋に手刀を当てる。トットもルシアの後を追うようにして倒れた。
その時になって、やっとジュヴナントはこの男の姿を正面に捉えることができた。
全身を黒の衣服で包み、頭には同じ黒のターバンを巻いていた。腰には長剣を差している。涼やかな目が、ジュヴナントを見つめていた。
「誰だ!」
ジュヴナントは叫んだ。
黒衣の男…。ジュヴナントはふとダリオットを襲った連中の事を思い出した。
しかし、この男の装束は明らかに彼らとは違っていた。ダリオットを襲った連中が身につけていた服装は南方系のものであった。だが、この男のそれは明らかに北方の民族のものである。
「おまえが、ジュヴナントか?」
男は静かな口調で尋ねた。
「何者だ! なぜこんな真似をする!」
ジュヴナントは剣を鞘から抜いた。この男が敵であることは分かる。
ルシアとトットを一瞬にして眠らせた男の動きは尋常のものではない。気配すらなかった。その気ならば、ジュヴナントを真っ先に殺すこともできたはずなのだ。
「ちょっと、興味があってね。あの二人には、邪魔されないように眠ってもらった」
黒衣の男はそう言って軽く笑うと、細身の長剣を抜いた。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。おれの名はセイナ。少し、お手合わせ願いたい」
風が舞った。
キィーン
「ぐぅっ…!」
乾いた音が森にこだまする。
ジュヴナントはどうにかセイナの剣を受け流していた。だが、セイナの攻撃は休む間もなく続く。ジュヴナントには、その切っ先をかわすだけで精一杯であった。
『つ…強い…』
剣を受けながら、ジュヴナントはセイナの腕前に圧倒されていた。
「はぁっ!」
ジュヴナントが大きく剣を払う。
カシィーン!
剣が激しく当たって、二人は分かれた。
すでに、ジュヴナントは肩で息をしていた。
セイナを睨みつける。彼は汗ひとつかいていないようだった。
セイナがふっと笑った。
『来るっ…!』
ジュヴナントは身構えた。すっと汗がひく。
だが…
突然、セイナは剣を鞘に収めた。
「…えっ…?」
「いい腕をしているな。もっと強くなれ。次に会う時が楽しみだ…」
セイナは微笑んでそれだけ言うと、あっけにとられているジュヴナントを残して宙に消えた。
「な…なぜだ?」
ジュヴナントは誰もいない空に向かって尋ねた。
- つづく -