「はっ!」
ミリアーヌは素速く脇へ跳んだ。
光柱の中から放たれた巨大なファイヤー・ボールが、彼女のすぐ横を通り過ぎていく。炎球は、そのままミリアーヌの後ろの木を薙ぎ倒して四散した。
「誰だっ!」
ミリアーヌは体勢を立て直すと、光の柱へ向かって叫んだ。
光の柱が収束するにつれて、その中から一人の女性が姿を現した。
「ルシア!」
ジュヴナントが叫ぶ。
「ば…ばかな…、そんなはずが…」
ミリアーヌは愕然としてその姿を眺めた。
それは間違いなくルシアであった。だが…。
「…!」
不意に、ジュヴナントは息をのんだ。
確かに、彼女がルシアであることは間違いない。しかし、何かが - まわりの空気のようなものが違っていた。それに、ルシアがもっているのは僧侶の資格のはずだった。彼女にファイヤー・ボールの呪文が使えるのだろうか?
「ルシア?」
ジュヴナントが声をかける。だが、その声はルシアには届いてはいない。
「…きさまか、私を呼び起こしたのは?」
ルシアはそう言って顔をゆっくりと上げると、ミリアーヌを睨みつけた。その目は、ジュヴナントなど見てはいなかった。
ミリアーヌはルシアの目に射竦められていた。
ルシアを取り巻く雰囲気が、先程までのものとはまったく異なっていた。ルシアと目があった時、ミリアーヌは心臓を冷たい手でギュッと掴まれたかのような気がした。背中を暑さのせいではない冷たい汗が流れ落ちる。鼓動が急速に速く、そして、大きくなっていく。
すべてがミリアーヌの理解を超えていた。
「たぁっ!」
ミリアーヌは、とっさにジュヴナントに射つはずだった雷球をルシアめがけて放った。
バシィッ!
だが。ルシアが片手を前に出しただけで、その雷球は霧散した。
「ふっ…、その程度か…」
ルシアはそう言って、低く笑った。
「なっ…なんだとぉ!」
ミリアーヌは激昂した。自分でも、頭に血が上るのが分かる。
「なら、これならどうだっ!」
ミリアーヌはたて続けにハイ・ライト・アローの呪文を唱えた。ミリアーヌの指先から巨大な光の矢が無数にほとばしり、ルシアに向かって一直線に空を飛んでいく。
「ふっ…」
ルシアは軽く笑うと、右手を下から振り上げた。
ゴッ…ズアッ…!
地面がいくつか筍状に天に向かって高く盛り上がる。
バガッ…! バシィッ…!
「なっ…」
光の矢はすべてそれら石柱の先端に吸込まれるかのように落ちてゆく。避雷針と同じ原理だ。ミリアーヌの呪文は単に盛り上がった岩の先端を窺っただけで、ルシアにはまったく届いていない。
「…今度はこちらからいくぞ」
細かい岩の破片が舞い降りる中、ルシアはあやしげに微笑んだ。
「あ…ああ…」
ミリアーヌは恐怖した。もう精神力もほとんど残ってはいない。
ルシアが呪文を唱和した。
「はぁーっ!」
「やめるんだ、ルシア!」
ジュヴナントが叫ぶ。だが。炎が巨大な奔流となってミリアーヌへと向かった。
ミリアーヌは跳んだ。最後の残り少ない力を集中して…。
炎が消えた時、もうそこには何もなかった。
すべてが、あまりにも突然で、そして激しすぎた。ジュヴナントは何もすることができなかった。
ルシアはそのまま動かなかった。まるで、彼女のまわりだけ時間が止まっているかのように…。
「…ルシア?」
ジュヴナントが呟いた。
と、それを合図に、まるで時の砂が崩れるかのように、ルシアはゆっくりと倒れ込んでいった。
「…!」
ジュヴナントは駆け寄って、ルシアを抱き起こした。
ルシアはまるで静かに眠っているかのようであった。先程までの冷たく突き刺さるような雰囲気は全く感じられない。ここにいるのは、ジュヴナントの知るこれまでのルシアだった。
いったい何が起こったのだろうか?
だが、その思考もすぐに中断された。
「まったく、派手にやってくれねぇ」
不意に、空中から声がした。
ジュヴナントは空を見上げた。
そこには一人の女性が浮いていた。
彼女が声の主であった。
黒い服と髪をまとった女性は、空中から森の様子を見渡した。
このあたり一帯には、炎球や電撃などの呪文によって黒く焼けた跡や地面が捲れ上がっている所がいくつもあった。それらは、美しい森に開いた破壊の暗黒の穴だった。
これだけ森を破壊されたのだ。侵入者には手ひどい仕打ちをあたえてやるつもりだった。そう、それを見るまでは…。
胸のところには羽根を広げたドラゴン。その上に輝くベルタナスの紋章。間違いなかった。
だが、どうしてこの若者があの鎧を身につけているのか…?
彼女はゆっくりと降下した。
ジュヴナントはルシアを腕に抱えたまま空中の女性を見上げていた。
彼女が、あの離れ山に住むという…魔女?
ジュヴナントは驚きながらも、タトナの宿で聞いた話を思いだしていた。
「離れ山に住む魔女? ああ、確かにそんな話を聞いたことがあるなぁ…。そうそう、もう三〇年も前のことになるかな。どこからかやってきた魔法使いの女性が、離れ山の中腹に立派な屋敷を建てて住みついたっていうことだ。確か、名前はカーラとか…。まあ、めったに人前には姿を現さないらしいからねぇ、誰に聞いたって詳しいことを知っている人はいないと思うよ…」
彼女が…カーラ…?
黒い服をまとい、長い髪をなびかせている女性は、どう見ても二〇代後半にしか見えない。もっとも、それが彼女が魔女たるゆえんなのかもしれないのだが…。
カーラはゆっくりと地上に降り立った。
しなやかな黒のドレスのような服の裾がふわりと舞う。右手には金色のキセルを持ち、同じ金色のブレスレッドをしていた。首には飾りのない細い銀のネックレスをしている。
うねって流れるような黒髪は、彼女の腰のあたりにまで達していた。黒い瞳の目は切れ長で鋭い。
カーラの背はジュヴナントよりも少し高いくらいだ。女性としては大柄な部類に入るだろう。ジュヴナントはカーラから目に見えない威圧感のようなものを感じとっていた。だがそれは、決して彼女の身長によるものだけではない。
「…あなたが…、カーラ…さん…ですか?」
ジュヴナントはおそるおそる尋ねた。
「そうだ」
カーラは短くそう言い切った。
「…とりあえず屋敷まで来てもらうよ。その女も、あの小僧もかなり参っているみたいだからね。詳しい話はその後だ」
カーラはちらりとトットの方を見ると、そう言った。
「あっ…」
ジュヴナントが何か言おうとする前に、カーラは呪文を唱え終わっていた。
瞬間、ジュヴナントはまわりから押しつぶされるような感じを覚えた。
そして、そのまま、景色が歪んでいくのを不思議な心持ちで眺めていた。
ふと気付くと、ジュヴナントは大きな屋敷のロビーに立っていた。天井が高い。天井からつるされた大きなシャンデリアがロビーを明るく引き立たせていた。
すぐ近くには、トットとルシアが横になっている。目の前には、相変わらずカーラが立っていた。
他には誰もいないようだった。屋敷は異様なまでの静けさに包まれていた。
「まずは、私の質問に答えてもらおうか」
カーラは手に持ったキセルをふかしながらそう言った。
「質問?」
ジュヴナントは訝しんで尋ねた。
「そうだ。別に大したことじゃない。おまえがその鎧をどうやって手に入れたかということさ」
「この鎧…ですか?」
ジュヴナントは不思議に思いつつも、ナムラ城での出来事を手短に話した。彼女に隠しておくようなことではないだろう。
「ふっ…、はっはっはっ。そういうことか。では、まんまとクワラルにしてやられたということだ。そいつは、すまなかったな」
カーラはさも愉快そうに笑った。
「なら、話は分かっている。伝説の魔王について聞きたいんだろ?」
カーラはにやりと笑った。
「ど…どうしてそれを?」
「でなけりゃ、あたしの所に来るはずがないからね。まぁ、あたしも詳しいことは教えられないけど。本当に知りたいんならもっと北へ行くしかないね」
「北へ?」
「そう、霧の大渓谷さ。あれを抜けたところに答があるはずだよ。もっとも、霧の大渓谷に入って無事に帰ってきた奴はいない。安全は保証できないよ。それでも行くかい?」
カーラはこの青年に賭けてみようと言う気になっていた。もう、その時は近いのだろう。
「行くしか…ないのでしょう?」
ジュヴナントはゆっくりと、だが、はっきりと答えた。そのまま、まっすぐにカーラの目を見つめる。
「ふっ、大した度胸だよ。まあ、やってみるのも悪くない。…今日はここに泊るといいさ。他に誰もいないんだ。好きな部屋を使っていい」
カーラはそれだけ言うと、軽い微笑みを残してロビーから立ち去ろうとした。
「あっ、もう一つ…」
慌てて、ジュヴナントは尋ねた。
「なんだい?」
振り返って、カーラが聞き返す。
「さっきの…、この鎧がどうかしたんですか?」
カーラはきょとんとした顔でジュヴナントを見た。
「知らなかったのかい? その鎧は、以前あのタルカサスが着けていたものなんだよ」
カーラはおかしそうにそう言うと、くるりと背を向けてロビーから出ていった。
ジュヴナントは茫然とそこに立ち尽くしていた。
翌朝早く、ジュヴナントはルシアとトットとともに離れ山のカーラの屋敷を後にした。
「霧の大渓谷か…」
ジュヴナントは独り呟いた。
目の前には、まだ森が続いている。
- 第3章おわり -