ナムラよりも遙か北。大森林<グルナ=カルランテ>の中に、その離れ山はぽつんとそびえたっていた。山から東に視線を転じれば悠久の山脈にその行く手を遮られるものの、西を見ればただただ広大な森林が広がるのみである。
「ふぅ、まったくいやになるねえ…」
離れ山の山腹にただ一つ建つ古い館。その広いリビングルームで、一人の女性がロッキングチェアーに足を組んで座っていた。
彼女は、ドレスのような黒の長い服をまとっていた。なめらかな右手の指が細長い金色のパイプにからまっている。
軽く頭を振ると、彼女は静かにパイプの煙を吐き出した。
煙は細く尾をのばしたが、不意の窓からの風に掻き消されてしまった。
彼女は長いまつげの下の目を窓の外に向けた。長い黒髪が風に乾いた音をたてて揺れる。
「…また、一波瀾ありそうだねぇ…」
彼女はそう呟くと、再び目を閉じてパイプをふかす作業に戻った。
はぁ…。
ジュヴナントはナムラの城壁を見上げてため息をついた。
ここへ来るのは、決して初めてではない。だが、何度見てもその姿には圧倒されるものがある。
造られてからすでに三百年以上が経っている。風雪に浸食の進んだ城壁は、所々ヒビが入っており、モルタルでの補修のあとが残っていた。
城壁の外には、背の低い草が救いを求めるかのように壁にへばりついていた。
ジュヴナントは城門の前で再び顔を上げた。
『訪れるものに幸福を』
建設時に城門に刻まれた言葉である。
だが、今ではその言葉は摩耗して薄れ、誰一人として気にとめるものもいなくなっていた。
ジュヴナントはその言葉を一瞥すると、再び人の流れに紛れた。そのまま、運び込まれる多くの荷車の荷物や旅人とともにナムラの城門をくぐる。
『訪れるものに幸福を』
もはや、誰もそんなことを信じられない時代が来ていた。
「そうか…」
ダリオットはそう言ったきり口を閉ざした。その前にはジェンラウァが立っている。
彼らはナムラ城の東北の尖搭の最上階にいた。がらんとした部屋の中には、一揃いの合わせ木細工のテーブルと椅子があるのみである。
この部屋は、長いこと使われていなかったのだろう。床の上だけでなく、部屋の中央のテーブルと椅子にも、うっすらとホコリが積っていた。
ダリオットは古い鎧戸のついた石枠の窓の脇に立つと、窓から外に広がる世界を眺めた。
日はようやく天頂を超えたところだ。そのため、その部屋へは陽が射し込まない。影がダリオットの表情を隠していた。
薄暗い部屋を冷たい風が吹き抜け、ダリオットの前髪が揺れた。
「…ダリオット様…」
ジェンラウァには、それ以上何も言えなかった。
この狭い部屋にいるのは、彼ら二人きりだ。
ダリオットをここへ呼んだのはジェンラウァである。ジェンラウァはこの部屋に入るなり、エルオットの容体がかんばしくないという話を切り出した。
エルオットはダリオットの兄であり、この国では第一王位継承権を持つ人物である。しかし、エルオットは生来身体が弱い。特に季節の変わり目には軽い発熱をおこし、ベットを離れられなくなることが多い。しかも、一週間程前に落馬した時の傷のせいか、最近は高熱にうなされていることも多かった。
ジェンラウァの言いたいことは十分に分かる。
もしも、エルオットに万が一のことがあればベルタナスの王位を継承するのは、ダリオットということになる。エルオットの容体が良くないということになれば、そんな話があってもなんら不思議ではない。
だが、それはダリオットにとっては辛いことでもあった。エルオットが病気がちであるとはいえ、これまでは決してその命が危険にさらされることはなかった。もちろん、兄のことを気遣っていないわけではない。その気持ちは、誰よりも強いといえた。
もう、勝手に城の外へ出歩かないようにしてくれ。
ジェンラウァが言いたいことはそういうことなのだ。もちろん、ダリオットにはそれが父のクワラル三世の指図であることも分かっていた。守り役だったジェンラウァの言うことならば、ダリオットもあるいは聞くと考えたのだろう。
「ジェラ、もう少し、考えさせてくれ…」
「ダリオット様…」
「分かっている。もう無茶はしない」
ダリオットは、うつむきかげんにそれだけ言うと、窓に背を向け、足早に搭の階段を降りていった。薄暗い部屋には、ただジェンラウァだけが残された。
「ダリオット様…」
ジェンラウァはもう一度、口の中で呟いた。
エルオットはうっすらと目を開けた。すでに日は高く、部屋の中も明るくなっていた。
『もう、こんな時間なのか…』
エルオットは茫然とそんなことを考えた。
昨日、意識を失ってから、少なくとも半日は眠っていた計算になる。皆の心配した姿が容易に想像できるというものだ。
「エルオット様、お気付きですか?」
侍従の老人がエルオットの顔を覗きこみ、小さな声でおずおずと尋ねた。
「ああ、もう大丈夫だ。心配をかけたな」
エルオットはベットに横たわったまま、そう答えた。
老人は目で召し使いに国王に知らせてくるよう合図を送った。一人の召し使いが、慌てて部屋を駆け出ていく。エルオットはそんな光景を横目で眺めていた。
「それと…」
「はっ…?」
侍従の老人は驚いたように返事をした。
「ダリオットを…、弟を連れてきてくれないか?」
「兄上!」
ダリオットはエルオットの部屋へ駆け込んだ。
「ダリオット様!」
侍従の言葉には、その行為への非難が多分に含まれていた。ダリオットは気まずそうにその場に立ち尽くした。
「ふっ…、構わんよ…」
エルオットは弱々しい声でそう言った。
「兄上…」
ダリオットはエルオットの顔を覗きこんだ。兄が自分を呼ぶなどということは滅多にない。それ故に、何がおこったのか気がかりだった。
エルオットは、熱のためか少し汗をかいているようだった。黒い前髪が、何本か額に貼りついている。ほおはいくぶんかこけており、唇はかさかさに乾いてひび割れていた。本来ならば幾人もの女人を魅惑するであろう切れ長で涼やかな目も、熱のせいか心なし潤んで見える。なかなか切ることのできない髪は、今ではずいぶん伸びて肩のあたりにまで達しようとしていた。
エルオットの回復の兆しは、いまだ現れていなかった。
「じい、ダリオットと二人だけで話がしたい。席をはずしてくれるか?」
「はっ」
侍従の老人は短く返事をすると、召し使いたちとともに部屋を出ていった。
ダリオットは、それを目で追った。
「ダリオット」
エルオットは突然そう言った。
「あ、はい」
ダリオットは慌ててベットの方に向き直った。
「…すまんな。いろいろと迷惑をかけているようだ」
「そんな…」
「ダリオット」
「はい?」
「この国が欲しいか?」
「兄上!」
ダリオットが気色ばむ。
「ふっ…、冗談だよ。お前には自由の方が似合う。…そうだな、まだ私ががんばらないといけないな…」
エルオットは自らに言い聞かせるかのように静かにそう言った。
「兄上…」
ダリオットには十分すぎるほど分かっていた。誰よりも自由を欲しているのは、他ならぬエルオット自身なのだ。
ベルタナス王国の第一王子として生まれた時、彼の運命はレールの上に乗せられてしまったのだ。加えて生来の体の弱さである。自由に外出するのもままならなかった。エルオットに比べれば、ダリオットは第二王子としてずいぶんと気ままな暮しをすることができた。
そんなエルオットは、今や弟の自由まで奪いかねないことに苦悩していた。
ダリオットにはそれが痛いほどよく分かった。
ダリオットには、兄にかける言葉を見つけることができなかった。何よりもそれがもどかしかった。
「すまない。手間をかけさせたな。もういいよ」
「兄上…」
「…少し、眠らせてくれないか?」
エルオットはそう言って、まぶたを閉じた。
- つづく -