「最近どうもいけないね。昨日も商隊が魔物に襲われたって話を聞いたよ。…エールでいいかい?」
ネフスの街の奥まった酒場のおやじは、ジュヴナントがカウンターにつくと同時に話し始めた。
いくぶんか薄くなりかけた頭にも白いものが混じり始めている。エールを差し出した手は、かさかさで皺も深く、長い間の苦労をしのばせた。
「確かに、ろくなことがないね…」
ジュヴナントは静かに答えた。
あの闘いの一五日後にネフスに到着して以来、ジュヴナントはここ何日かを港街ネフスで過ごしていた。
途中で倒した灰色熊グル・ベアーの毛皮がいい値で売れたので、彼はしばらくここに滞在することに決めたのだ。ケガを癒すためにも、しばしの休息が必要であった。
あいかわらず、レキュル、ヤン、クレアらの消息はつかめない。皆どこかバラバラに飛ばされてしまったようだ。知り合いに出会うたびに彼らのことを何か知らないかと声をかけてはいるが、ジュヴナントはもはや気長にさがすしかないと考えはじめていた。
このネフスは、大河ガネリア川の河口に建設された都市である。対岸のコルタートと並んで、ベルタナスからの貿易船の寄港地となっていた。当然、コルタートへの競争意識は強い。
最近は、南のドレス湾やその沖合のハルバース島を拠点とする海賊船の出没が激しく、かつてほどの賑わいこそないが、ナムラ、ミトスに次ぐベルタナス第三の都市としての威厳は十分に保っていた。
この街の人々は、我が町ネフスに自信を持っていた。さらに、皆が港街ゆえの陽気さを持ち合せていた。
しかし、そんなネフスでさえも、人々の口にのぼる噂は日に日に悪くなる一方だった。
安息を求めたがっているのは何もこの酒場のおやじだけではない。人々すべてが不安におののきながら生活をしているのだ。
昨今、姿を見せる魔物の数が目に見えて増加している。何かよくないことがおこるのではないか、という危惧を抱かないのは、もはやよほどの楽天家であろう。早く昔のような、決して平穏であったとは言い難いが、少なくとも今よりはましであった頃の生活に戻りたいと皆が思っていた。
はたして、あのドラゴンが何か関係しているのだろうか?
最近、そんな思いが胸の内を占めるようになっていた。あの時の威圧感や恐怖感ほどのものは、今までに味わったこがない。
あのドラゴンはいったい何だったのだろう?
だが、考えただけで答が分かるはずもない。
ジュヴナントは、軽く頭を振ってからエールを一気に飲み干すと、そのまま席を立った。勘定を古ぼけた木のテーブルの上に置き、店を出る。
『ナムラへ行ってみるか…』
西部地域<ヴェンディ>で最大の王国ベルタナス。その王都ナムラ。ならば何か情報がつかめるかもしれない。
ジュヴナントは、ようやくこの街を発つ決意を固めたのだった。
一度出発すると決めてしまうと、後はもう大して時間はかからなかった。
冒険者故、持ち歩いている荷物は少ない。街の通りの店で必要なものを買い揃えてしまうのに二日とかからなかった。
ジュヴナントは、酒場のおやじをはじめとする幾人かに別れの挨拶を告げただけで、潮風に見送られながら、独りネフスの街を出発した。
ここからギリアまでは山裾街道を北へのぼり、ギリアからはガネリア街道をのぼらなければならない。それは、たっぷり二〇日はかかる行程だった。
ジュヴナントがギリアに着くまでに大したことは何も起こらなかった。ギリアの直前でガネリア川にかかっている苔むした石橋を渡り、ジュヴナントは街の門をくぐった。
ギリアは、大街道、山裾街道、ガネリア街道という三つの街道が一度に交わる所として知られている。その名前の由来も、三つの路が交わる町という意味である。
大街道は、遥か西方の地ミナセルから、名だたるトコス、リラート、ラーサルト、ミトスといった大都市をへて、ここギリアに至り、そこからさらに海岸線を南下してフェルバ、ドーマ、ダムをへて南方のスクルートに至る、まさに大大陸を走る生命線そのものであった。この街道の歴史は古く、すでに千余年を数えるとさえいわれている。
これに比べれば、山裾街道とガネリア街道は新しい部類に入る。
山裾街道は、ギリアからネフスをへてアラ=デ=ヤグナフォントに沿うようにしてガラテノアにまで伸びている。天の高知と呼ばれるアラ=デ=ヤグナフォントに西への道を阻まれているガラテノアにとって、この街道以外に陸路で内地に行く手はない。
対して、ガネリア街道はギリアから王都ナムラをへて大森林近くの街タトナへと続いている。ナムラまではガネリア川を船でさかのぼることもできるのだが、人々は船よりも街道を自分の足で行く方を好んだ。
また、ナムラでは、王国第二の都市ミトスで大街道から枝分かれしているガナラ街道がガネリア街道と交わっていた。ガナラ街道は、そのまま東方の街メナートアまで伸び、そこで北ガナラ街道と南ガナラ街道とに分かれ、さらに東へとのびる。
ギリアの建物は、ネフスに比べると高いものが多い。やはり地盤がしっかりしているせいだろうか。立ち並んだ三階立ての民家は、赤い屋根がうっすらと色褪せて、どことなく生活のにおいを漂わせていた。
ジュヴナントはそんな街並みを横目で見ながら、街の中央広場の近くにある酒場へと向かった。
何かの情報を得るためには、酒場はもってこいの場所である。そこには大勢の冒険者がいた。お互い、新しい話題を求めていた。皆、話の断片から自分の探している情報を手に入れるのには慣れていた。
ジュヴナントは酒場の半分傾いたドアを開けると、奥のテーブルに独り座った。
注文を取りに来たウェイトレスに一杯のエールを注文すると、ジュヴナントは他の冒険者たちの会話に耳を傾けた。
「…聞いた話では、北の森にオークの大群がひそんでいるらしいぜ」
「本当かよ、その話?」
「けど、最近、ガナラ街道でも被害が相次いでいるな…」
「別に、ガナラ街道に限ったことじゃないさ。おれはあちこちでそういう話を聞いたぜ」
「じゃあ、魔王が現れたっていう噂は本当なのか?」
「さあな。でも、これじゃあ信用したくもなるよ」
「はぁ…、少しは楽にならないもんかねぇ」
「いいだろ? 魔物がいなくなって、仕事がなくなるよりは?」
「…そういえばさ、この前話していた、ジムの船団の話はどうだったんだ?」
「ああ、それか。どうやら、あれは海賊の仕業じゃないらしいぜ」
「じゃ、どうして…?」
「クラーケンだとさ。…まだいたのかねぇ? そんな化物。もうとっくの昔に絶滅したと思ってたのに」
「だが、これで海賊もおちおち海へ出られないだろうな」
「…どうやら、悪いことは東から来ているらしいぜ」
「東って…、まさかエスミか?」
「ああ。悠久の山脈の向こうの動きが変なんだ」
「悠久の山脈といえばさ、トロルの話を聞いたかい?」
「いいえ。…何かあったの?」
「それが、悠久の山脈からトロルがいくらか降りてきたらしいんだ」
「何ですって! それは本当なの?」
「トロルなんて、ここ数年話にもでてこなかったのになぁ…」
「悠久の山脈の辺りは、もう危険だらけさ」
「それはそうと、お前、黒がね連山のドワーフの所へ行ったことがあるかい?」
「ああ。それがどうしたんだ?」
「じゃあ、グルーノムの話は聞いたかい?」
「いいや。誰だい、それは?」
「黒がね連山のドワーフの新しい族長だ」
「じゃあ、あんたは行ったことがあるんだな?」
「いや、行ったことはない。噂話に聞いたんだ。どうやらドワーフにも妙な動きがあるみたいだな…」
「本当かよ」
「らしいぜ」
「はぁ…、まったく、明るい話題はないのかねえ」
「仕方ないさ。こういう時代なんだ」
ここまで話を聞いて、ジュヴナントは席を立った。
…本当に明るい話題がないものだな。
これ以上、話を聞く気にはなれなかった。苦笑いすら出てこない。もうこれ以上落ち込みたくもなかった。
ジュヴナントは酒場を出ると、日の落ちかけた通りを、宿を探しに歩き始めた。
街は、沈みかけた夕日で一面黄金色に染まっていた。
翌々日の朝早く、ジュヴナントはギリアを出発した。
早朝の風はまだ冷たかった。
春が来るまでには、もうしばらくかかるのだ。
ジュヴナントは、北の空を見上げた。
ナムラまではまだ遠い。
- つづく -