地に伏したまま、タルカサスは腰の短剣をはずした。手元にある武器はこの短剣のみ。しかし、どうやってこの短剣でドゥルガを倒すのか…。
「覚悟はいいか?」
タルカサスの剣を片手に、余裕の表情でドゥルガが近付いてくる。
対して、タルカサスも手の中の短剣を隠したまま、痛む足を引きずって立ち上がる。
「ほう? まだやるか?」
タルカサスの左足の矢傷からは、とめどなく血が流れ出している。タルカサスは、もはや自由に動くこともままならないのだ。勝負は完全に見えていた。
それでも、ドゥルガは一気にかたをつける気でいた。タルカサスに付け入る隙を与えてはならない。
三〇年来の恨み。今こそ、決着をつける時なのだ。
「がぁぁぁっ!」
地を蹴り、ドゥルガが剣を構えて突進する。その先にはタルカサス。
一直線に、全体重をかけて剣を突き出す。
ずがっ…ばっ…!
飛び散る血しぶき。
二人の体が重なる。
タルカサスの体を貫いた鋭い剣の切っ先が、古びた鎧の背から大きく飛び出していた。鮮血が剣をつたって滴り落ちていく。
まるで時間が凍りついたかのようだった。
口の端から血を滴らせたタルカサスの顔を、ドゥルガは目を見開いて見つめていた。
「きさま…。おれは…がはっ!」
そこまで呟いて、ドゥルガは口から血の塊を吐いた。二人の体が血で真っ赤に染まった。
「…おれの剣を避けなかったのは…、ぐっ…、そういう…ことか…」
ドゥルガの心臓には、タルカサスの突き出した短剣が深々と突き刺さっていた。タルカサスには、ドゥルガの勢いを逆に利用する以外の手はなかったのだ。
「…おれは、まだ…負けては…い…」
だが、消え入るような声とともに、ドゥルガの体がゆっくりと地面に倒れ込む。
「…ドゥルガ…」
タルカサスは、うつろな目でドゥルガを見下ろした。陽光が、かつては獣王ドゥルガであったものの背を照らしている。
「ぐっ…」
タルカサスは足をよろめかせた。胸からの出血がひどい。ドゥルガとともに、彼の命の灯も今や燃え尽きようとしていた。
「タルカサス!」
その時、空から舞い下りる影…。
流れるような黒髪。ゆったりとした黒のドレス。
「…カーラ…」
ゆっくりと顔を上げたタルカサスは、もはや懐かしい名を呼んだ。
ほおに一瞬微笑みが浮かぶ。
「…後は…頼…む…」
「タルカサス!」
ドゥルガの後を追うかのようにして倒れ込むタルカサス。カーラはその体を反射的に抱きとめた。
「しっかりするんだ!」
その言葉に、タルカサスは笑顔で答えた。
「…カーラ…おまえは…死ぬな…よ…」
それがタルカサスの最期の言葉だった。タルカサスの体がずしりと重くなる。
カーラの腕の中で、今、タルカサスはもう二度と目を覚ますことのない眠りについたのだ。決して戻ることのない時計の針が、また一つ目盛りを刻む…。
「タルカサス…」
カーラは小さな声でそう呟くと、タルカサスの体をそっと暖かな地面の上に横たえた。
そして、立ち上がって、まわりのオークたちを見渡した。
その瞳の中には、激しい怒りの炎が渦巻いていた。ゆっくりと、長い時の封印が解かれていく。
「おまえたち、まさかここから無事に帰れるなんて思っちゃいないだろうね!」
その言葉に、オークたちは恐怖した。
北の大地に巨大な炎の華が咲いた。
「キッヒッヒッヒ…」
風の精霊によって破壊された岩の破片が降りしきる中、笑うザナーガの前で岩の巨人の壊れた右腕に岩の塊が吸い寄せられるように集まり、元の形を取り戻していく。
「まだっ!」
エンターナの声とともに、もう一度、風の精霊が飛び、ザナーガに襲いかかる。
しかし、その風もザナーガの前に新たに現れた岩の壁に、大きな窪みを伺っただけであった。
「…水よ!」
シンフィーナが大きく手を横に広げる。霧の羽衣を構成している水の粒子が、螺旋を巻き、ザナーガに向かう。
だが、その水のドリルも、ザナーガの岩の壁に穴を開けることはできなかった。
「そんな…」
矢継ぎ早に風を放つエンターナ。水を射つシンフィーナ。だが、岩はそんな二人を嘲笑うかのようにして次々と再生していく。一枚が破壊されても、すぐに次の一枚が顔を出すのだ。これではきりがない。
しかも、岩の巨人の攻撃を避けながら攻撃を行わなければならないのだから、ことは容易ではない。
「何度やっても無駄ですよ。あなたたちの風と水では、この岩を越えられませんからね」
そう言って、ザナーガが笑う。
その時、エンターナの瞳が一瞬キラリと光った。
『…岩を越える…』
「…そうか。シンフィーナ!」
エンターナの呼び声に、シンフィーナが振り向く。
「…兄さん…?」
不思議そうな顔を向けるシンフィーナ。
「いいかい、シンフィーナ。…」
エンターナがシンフィーナに何やら耳打ちすると、シンフィーナはこくりと小さく頷いた。
「…分かったわ。やってみる」
二人してザナーガに向き返る。
「ほぅ。二人がかりというわけですか。キッヒッヒッヒ…。でも、その程度では同じですよ」
余裕の表情を見せるザナーガに対して、まず、シンフィーナが水を放った。間髪入れずに、エンターナの風が放たれる。
「キッヒッヒッヒ…」
だが、ザナーガの前に、今までよりも一まわりは厚い岩の壁が姿を現す。
水が走る。
「…?」
次の瞬間、ザナーガの全身がずぶ濡れになっていた。水のせいではない。風の精霊がザナーガの体を切り裂いたのだ。ザナーガの体からは、真っ赤な血が吹き出していた。
「…ば…ばか…な…」
うつろな目で、エンターナとシンフィーナを見る。そして、岩の壁も。
壁には穴一つ開いていなかった。水と風はこの岩の壁を突き破ったわけではないのだ。
「な…なぜだ…?」
「その岩の端を見てみることだね」
静かにエンターナが言う。
「…端?」
ザナーガが注意して見ると、岩壁の上端前面が、何かに削り取られたかのように丸く滑らかになっていた。
「確かに、ぼくらの風と水の精霊たちでは、岩の壁に穴を開けることはできない。でも、岩の壁を越えることはできるんだ」
「…そう…か…。大したもの…です…」
息絶え絶えに、ザナーガが苦々しく笑う。
岩壁の端を削ったのは、シンフィーナの水の精霊だった。そして、エンターナの風の精霊が、岩の端を滑るようにかすめ、そのまま渦を巻くように下方に回り込んで、ザナーガに襲いかかったのである。
それは、風という流体の特性を十分に理解した者ならでは作戦であった。
「…見事…です…よ…」
それだけ言って、ザナーガはどさりと地に倒れた。それを合図とするかのように、岩の巨人ががらがらと音を立てて崩れていく。
「…終わった」
エンターナがぽつりと呟く。そして、まわりのオークをキッと睨み付けた。
「次は、おまえたちの番だぞ!」
全身を漆黒の鎧で固めた騎士は、小高い丘の上に立って、眼下の状況を身じろぎ一つせずに眺めていた。
剣の山の前のこの狭い土地にひしめきあうオークの数は相当なものだ。それに対して、オークを迎え討つのは、ドワーフとエルフの三人のみ。
本来ならば、勝負はもっと容易くついていてもいいはずだった。だが、キリアーノたちは善戦どころか、オークの半数以上をすでに倒している。
「だぁっ!」
目の前のオーク数人をまとめて斬り倒しながら、キリアーノは丘の上の黒騎士を睨み付けていた。
『あいつを倒せば、すべて終わる…』
それは戦士としての勘だった。だが、間違いはあるまい。
すでに、ここ剣の山の前の広場に残るオークの数は、決して多くないのだ。
キリアーノが、痛む足を押さえながら、丘を目指して進もうとした時だった。
黒騎士ロイアルスが、突然、さっと片手を上げた。
怪訝そうな表情を見せるキリアーノ。
だが、その表情も、次の瞬間には驚きと絶望の表情に変わっていた。
広場の左右の岩壁の上に現れたオークたち。その数は、これまでにキリアーノたちが倒したよりも遥かに多かった。
ロイアルスは、いざという時のために、オークの大部隊を隠していたのだ。
「何っ!」
突然現れたオークの姿に戸惑いを見せるエンターナとシンフィーナ。
美しきエルフの兄妹にも、疲労の色は隠せない。
そこにきて、このオークだ。
形勢は一気に逆転した。
「いくよ」
ミリアーヌを倒したジュヴナントらは、樫の木の扉に手をかけた。そして、扉を一気に開け放った。
ロウソクの灯りに浮かび上がる、石造りの薄暗い部屋。そんな部屋の中に、二つの人影が浮かび上がっていた。
「ルシア! レキュル!」
ジュヴナントは思わず叫んだ。
黒のローブに身を包んだ、はしばみ色のゆったりとした髪の女性。赤い宝石の埋め込まれた黒のマスクをつけた、銀色の髪と碧の瞳をした青年。
どうして…。
目を見開いて立ち尽くす他はない。
それは、クレアとヤンも同じだった。
「ちっ、あいつの言ったことは本当だったのか…」
ヤンが、小さく舌打ちする。
あいつとは、以前に黒がね連山で出会った、皮の鎧に身を包んだ猪面の男ドゥルガのことだ。
「よくここまで来た」
黒いマスクとマントをつけた男がゆっくりと口を開いた。
「私の名はサロア。そして、これがリディだ。私たちを倒そうなどという無謀さ、その身で味わうがいい」
そう言って、サロアはふっと笑った。
「レキュル! いったい何があったんだ? ルシア、思い出してくれ!」
必死にジュヴナントが叫ぶ。
だが、サロアはそんなジュヴナントを一笑に付した。
「何をいまさら世迷いごとを言っている。どうした? 来ないのなら、こちらからいくぞ」
そう言って、サロアは腰に吊るされている剣を静かに抜いた。細身のレイピア。それは、かつてレキュルが使っていた剣にそっくりだった。ただ、唯一異なる点は、その剣は刀身までがすべて漆黒であることだった。
「レキュル、あんた…」
クレアが呟く。
「もう、昔のレキュルじゃなくなったの…」
クレアのまぶたの裏には、ドラゴンとの闘いの時、とっさにドラゴンの吐く炎を防いで救ってくれたレキュルの姿が浮かんだ。
だが、それはもはや過去のものなのか。
ここにいるのは、魔皇帝サロア。自分たちが倒すべく旅をしてきた、まさにその相手なのだ。
悲しいけど、闘うしかない。
クレアは、頭を降って思い出をうち消すと、胸の中で悲壮な決意を固めた。
だが、ヤンは二人とは少し違った。
この部屋に入ってから、ヤンの目は部屋の奥の巨大な扉にくぎ付けになっていた。
巨石でできている扉だ。高さ八メートルはあろうか。まわりには様々な模様が刻み込まれていおり、中でも扉の上に刻まれた魔物の目が、高い所からヤンを見下ろしていた。
『何だ、この扉は…?』
ヤンは、鳥肌が立ってくるのを抑えることができなかった。
「さて、お手並み拝見といこうか…」
ジュヴナントやサロアらのいる部屋の隅の影の中で、白の神官服に身を包んだ異形の魔物が、にやりと笑いを浮かべた。
「どうして…、どうしてなんだ…?」
血を吐くかのような声でジュヴナントは呟いた。
なぜ、かつては仲間だった者と闘わなければならないのか?
サロアの抜いた剣がきらりと光る。
リディがゆっくりと前に出ると、すっと手を上に上げた。
「危ない!」
クレアが叫ぶ。次の瞬間、ジュヴナントらのいた所に、巨大な火球が炸烈した。
- つづく -