「えっ?」
トットは走りながら、神殿の扉が閉まるのを見た。オークの刀が扉に当たって空しく跳ね返る。
「うそ…」
次々と襲いかかってくるオークをかわしながら、トットは泣きたい気分になった。
エンターナとシンフィーナに向かって岩の巨人はゆっくりと歩を進めた。一歩ごとに地面が揺れ、砂ぼこりが舞い上がる。
『シンフィーナ、ここはぼくに任せて』
岩の巨人を睨み付けていたシンフィーナに、エンターナが小声でささやいた。
『兄さん…?』
シンフィーナがエンターナを振り返る。エンターナはシンフィーナを自分の後ろに押しやった。
そうしている間にも、岩の巨人は彼らのすぐ近くまで迫っていた。
「どうしました? キッヒッヒッヒ…」
ザナーガが笑う。だが、エンターナはそれを無視した。
地響きをたてながら、岩の巨人がエンターナまで後一歩の所に迫る。だが、エンターナは身動き一つせずに、じっと岩の巨人を睨み付けていた。
岩の巨人が大きく腕を振り上げ、エンターナめがけて振り下ろす。
「…風よっ!」
エンターナが胸の精霊の玻璃瓶のふたを開けた。
玻璃瓶の中から、閉じ込められていた風の精霊たちが一気に飛び出す。
風の精霊は、岩の巨人が振り上げていた右腕を粉砕し、ザナーガに向かって一直線に迫った。
だが、風の刃がザナーガに届く直前。
突然、ザナーガの前に岩の壁がせり上がった。
風が岩壁に激突する。とび散る岩の破片。
「キッヒッヒッヒ…。これは危ないですね」
ザナーガは降りしきる岩の破片の向こうで、不敵な笑いを浮かべた。
「キッヒッヒッヒッヒ…」
荒野に、ザナーガの笑い声が響き渡った。
「…ば…ばかな…」
ドゥルガはそれ以上言葉が出てこなかった。
ルキラート湖のほとりには五〇〇近いオークがいたはずなのである。だが、今、その数は半分にも満たない。
タルカサスの足下には、累々とオークの屍が横たわっていた。残ったオークも、恐れをなして、タルカサスに近付こうとしない。
「どうした? こんなものでは、このタルカサスは倒せんぞ」
二本の足で地面をしっかと踏みしめ、タルカサスはドゥルガに向きなおった。
だが、すでにタルカサスにとっては、立っているのがやっとであった。体中に刻まれた無数の傷が刻々と体力を奪っていく。
「怖じけづいたか、ドゥルガ!」
これ以上、オークの相手をしている余裕はない。
「きさま、言わせておけば…!」
そう言って、ドゥルガは腰から鋼鉄の斧を取り出した。
「どけぃっ!」
オークをかき分けて、ドゥルガがタルカサスの前に立った。
「この左目の傷の恨み、忘れたわけではないっ!」
そう叫んで、ドゥルガは斧を降りかざし、タルカサスめがけて突進した。タルカサスも剣をしっかと構えなおす。
風を越えて、戦場に火花が散った。
カシャン…
乾いた音を立てて、グラスが床の上で砕け散った。中の液体が絨毯の上にしみをつくっていく。
だが、そんなことには構わず、カーラは茫然とその場に立ち尽くしていた。
「タルカサス…?」
彼女の口から小さな呟きが洩れる。
『…何だ? この感覚は…』
胸の奥に焼けた鉄串を差し込まれたかのよう。
そして、なぜ、タルカサスの名が…?
不安と焦燥が胸の奥をチリチリと焦がす。
窓の外の森は、いつもと変わらず穏やかなのに。
カーラの脳裏に、館を訪れたタルカサスの顔が浮かぶ。
「まさか…」
悪い予感がする。
カーラは急いで自分の部屋を後にした。
カシーン!
乾いた音が戦場に響く。
「はっ!」
掛け声とともに、剣と斧が何合も打ち重ねられていく。
キン!
タルカサスの剣の切っ先が、ドゥルガの鋼鉄の斧の軌道をそらし、斧が激しく空をきる。
「がぁっ!」
だが、ドゥルガはさらに一歩踏み込んで斧を横殴りに薙いだ。その斧が体をかするかかすらないかのぎりぎりの所で、タルカサスは後ろに跳んでいた。
肩で息を整えながら、ドゥルガはタルカサスを睨み付けた。その目の中には憎悪の炎が宿っている。ドゥルガの左目の傷。これは、三〇年前の剣の山での戦いの際に、タルカサスによって刻み込まれたものであった。そして、ドゥルガにとって、この傷跡こそが敗者の烙印だった。
ドゥルガは自分の過去を清算するつもりでいた。ドゥルガにとって、タルカサスに勝つことだけが、敗者としての過去を捨て去る方法なのだ。
ドゥルガは斧を構えなおすと、じりと前に出た。タルカサスがさっと身構える。
「がぁぁーっ!」
駆け込みながら、ドゥルガは斧を最上段から振り下ろした。
「ふん!」
タルカサスは剣を両手で持ちなおすと、ドゥルガの斧に下から剣を合わせた。
カシーン!
金属同士がぶつかる鋭い音。鋼鉄の破片が太陽の光にきらめきながら宙を舞う。それは大きく弧を描くと、ざっくりと地面に突き刺さった。
「ぐうぅ…」
ドゥルガの額には汗が浮かんでいた。手の中には、すでに斧の柄しか残っていない。地面に突き刺さった斧の刃が、陽光の中、冷たい光を投げかけている。
「どうする? もう、終わりだな」
剣を構えなおして、タルカサスが冷たく言い放った。だが、その顔はすでに土色になっていた。タルカサスの体力も限界に近付いているのだ。
「覚悟しろ!」
タルカサスが剣を降りかざす。
ヒュン…
その時、風をきる音がしたかと思うと、タルカサスの右手に激痛が走った。
「な…」
タルカサスの手から、カランと音を立てて剣がすべり落ちた。
タルカサスの手の甲には矢が突き刺さっていた。
輪の外にいるオークが矢を放ったのだ。そこには、弓矢を構えたオークの一隊がいた。
その一本を合図とするかのように、オークたちは次々と矢を放った。
矢を避けながら、慌てて跳び退くタルカサス。地を転がるタルカサスの後を追うかのようにして、矢が次々と地面に突き刺さっていく。
「ぐっ…」
起き上がろうとしたタルカサスの左足に、ぶすりと矢が突き刺さった。膝ががくりと落ちる。
「これで形勢逆転だな」
ドゥルガはにやりと笑って、タルカサスが落とした剣を拾い上げた。使い込んではあるが、よい剣だ。
「きさま…」
地面にうずくまったまま、タルカサスは厳しい目でドゥルガをにらみつけた。
それを見て、ドゥルガが満足そうにほおを弛めた。
「タルカサス! どこっ!」
大森林の遥か上空で、カーラは声を限りに叫んでいた。
人一人をさがすにはこの森は広すぎた。焦る気持ちが、次第に彼女を支配する。
「タルカサス!」
カーラの呼び声が、空しく森に響いた。
ジュヴナントらは、長い廊下の突き当たりで立ち止まった。
彼らの前には、紺色の服とズボンを着た女性が立っていた。長めの栗色の髪を後ろでアップにして赤いリボンで止め、首に赤い宝石のついたネックレスをかけている。
彼女の後ろには、樫の木でできた大きく立派な扉があった。
「ミシャ…」
ジュヴナントが呟く。
「…また、戦わなければならないのか…」
「当然だ! 私はおまえたちの敵なんだからな!」
苛立たしげに、その女性 - ミリアーヌが叫ぶ。
「この先には行かせない!」
「大した意気込みね。…でも、あまり賢明じゃないわ」
そう言って、クレアがふっと笑う。
「…ジュナ、ここは私にまかせて。あなたじゃ戦えないでしょう?」
クレアがジュヴナントを押し退けるようにして前に出た。目はミリアーヌを見据えたままだ。
「私が相手よ」
静かな緊張が満ちる。
「誰だろうと…!」
そう叫びざま、ミリアーヌが雷撃を放った。
空を切り裂いて、光球がクレアに迫る。
だが、クレアは目を閉じて、何か小さく呟いただけだった。
光球がクレアに襲いかかる。まばゆい光がクレアを包み込んだ。だが…。
「…ばかな…」
ミリアーヌは驚愕した。今の一撃は確かにこの女をとらえたはずなのに…。
だが、クレアはかすり傷一つ負っていない。
クレアは静かに目を開けた。
「電気にはプラスとマイナスがあるのよ。それを使えばこれくらいはできるわ」
「…プラスとマイナス…だと…?」
ミリアーヌの負の雷撃を、クレアは仮想的な正の電荷でもって消し去ったのだ。
それは、ミリアーヌにとっては考えたこともないことであった。だが、一つだけ確かになったことがある。
…呪文が効かない…。
ならば実力の差は歴然としていた。
「次は私の番ね」
そう言って、クレアは雷帝の杖を掲げた。
杖から、無数の細い光の筋がほとばしる。
ミリアーヌは、その場から一歩も動けなかった。
「…っあ…!」
ミリアーヌの体が、光の糸に包まれて、床の上に崩れ落ちる。
「ミシャ!」
「大丈夫。気絶しているだけよ」
飛び出そうとしたジュヴナントを制して、クレアは微笑んだ。
「さすがクレア」
ヤンが小さく口笛を鳴らす。
だが、クレアはその笑みを一瞬で消し、厳しい表情で、樫の扉を睨み付けた。
「本当の敵は、この中にいるわ」
- 第10章おわり -