耳をつんざくような音とともに、長く巨大な炎の舌が乾いた石畳を勢いよくなぐりつける。間一髪、ジュヴナントは大きく横に転がる。金属製の鎧が石の床に擦れて、酷使に抗議の悲鳴をあげる。
薄暗い闇の中で、瞬間の閃光が彼を照らし出す。
ジュヴナント・クルス。鳶色の瞳と髪を持つ青年。戦士。右手に持つ長剣が、きらりと光を反射する。
「ジュナ!」
「大丈夫か?」
叫び声が、薄暗い神殿の中で交錯する。
彼らは<それ>から目を離すことなく、ジュヴナントのまわりに駆け寄った。ジュヴナントを含め、全部で四名。壁にまばらに灯った松明が、彼らのぼんやりとした影を床に描いている。
天井が抜けるように高い。だが、圧迫感はそれ以上に強い。
「どうすりゃいいんだよ!」
薄茶の皮鎧をまとった男が叫ぶ。乱れた明るい茶色の髪の下に血の気の引いた顔がある。残り少なくなった背中の弓矢がカラと音をたてた。
「そんなこと、あたしが知っているわけないでしょう、ヤン!」
彼の右隣に立つ若い女性が、苛立たしそうに答えた。心なしか少し声が震えている。腰までの白いローブにかかった、長めの黒髪が小刻みに揺れる。
「クレア、別におれは…」
「ヤン、クレア、今はそんなことを言い合ってるときじゃないだろ」
ジュヴナントが二人に注意を促す。
ヤン・コートランドとクレア・フェリス。職業は盗賊と魔法使い。普段はあれだけ陽気な彼らさえも、どこへも向けようのないやるせなさに支配されつつある。
彼らのやりとりを聞きながら、銀色の髪の青年レキュル・アーカスは、無意識に腰に差したままの細身の剣、レイピアに手をかけている自分に気づいた。神官戦士である彼は、どんなときにも冷静に対処する訓練を受けていた。しかし、それも今は、大した効果をあげていないように思われる。
「だが、何か手のうちようはないのか?」
レキュルは鮮やかな碧色の目だけを動かしてジュヴナントに尋ねる。
「…」
だが、その問いにジュヴナントは答えなかった。いや、答えようがないのだ。
額を汗が流れ落ちる。だが、それは暑さのせいだけではない。長時間の緊張で口の中がからからだった。
ジュヴナントは、震える手の中の真新しい剣をしっかりと握りなおした。
石造りの巨大な古い神殿の奥、薄暗い闇の中。そこからの恐怖をともなった波動が強烈に彼らを圧倒していた。薄明かりの中、ぼんやりとしか見えないが、だが、それでも十分だった。
彼らもこれまで旅の中、幾多の怪物と闘い、勝ち抜いてきた冒険者だった。今、こうしてここに生ある者として立っているのが、その何よりの証拠なのだ。
だが、今彼らの、四人の前にいる相手は、余りにも強大であった。
勝てる相手ではないことは分かっている。それがよりいっそう疲労感をあおる。
鈍い音とともに、それはゆっくりと歩を進めた。
振動で壁の松明が外れて床の上を転がる。
かがり火に照らされて、それは彼らの前にはじめてはっきりとその全貌を現した。
鈍く輝く白い巨大な体、長い首、大きな羽、そして鋭い牙と爪。
それは、体長二〇メートルはあろう、巨大なホワイト・ドラゴンであった。
大洋のただ中に、大大陸<グルナ=デ=フォンタル>と呼ばれる大陸がある。その歴史は古いが、詳しいことを知る者はいない。その大陸は、悠久の山脈<トーラ=デ=ナンテ>と呼ばれる、南北に走る長く険しい山脈によって大きく四つに分けることができた。その中で、西部地域<ヴェンディ>には無数の国家が居並び、大陸の人々のほとんどが住んでいる。北部<アルン>は極寒の気候のため、南部<ラザリ>は熱帯雨林のため、住む人は決して多くない。そして、東部地域<エスミ>はすでに人間の住める環境ではなくなっていた。
そして今、時をさかのぼること四ヵ月程前。
大陸のほぼ中央に存在する、月の昇る国と呼ばれるベルタナス王国の王都ナムラ。
それは、大大陸の西部地域で最も大きな国であり、同時に最も豊かな国の一つとして数えられる国である。その配下に入るのは、大都市だけでも八つ、小さな街や村を入れればその数はゆうに百を越える。これは、一つの国家が一つの都市で形成される都市国家が主流であるこの時代には極めて稀なことであった。
ベルタナスは、悠久の山脈の西側に広がる肥沃の平原<ガナラ=プラッタス>のほぼ中央に位置している。そして、ベルタナスの王都ナムラは、国土の大半を占める広大な平原のほぼ中央に位置する巨大な城郭都市である。脇を流れる大河の近くに、幾多の搭とその数を遥かにまさる旗を誇らしげにして他を威圧する巨大な城。だがこの時、およそ三百年の年月に耐えて威風堂々とそびえたつ王城の中は、その外観には似つかわしくないほどの熱病のような喧噪に包まれていた。
もっとも、この謁見ノ間に限って、その限りではなかったが…。
「うむ…」
それだけ呟くと、ベルタナスの国王クワラル三世は、眉間に深い皺を刻んだまま目と口を閉ざした。白髪と顔に浮かぶ深い皺とが、刻みこまれた年月の重さを示している。
だが、クワラル三世は、まだ壮健といったほうがよい年齢である。ならば、その風貌は単に歳のためだけでもないのだろう。クワラル三世は、苦悩の表情で沈黙を続けていた。
さして広くない謁見ノ間には、左右の採光窓からそそぎ込む光の粒子が舞っている。まだ陽は高い。簡素な彫刻がなされた石柱が、床にのびる赤い絨毯が、光と影が織りなす淡い矩形に彩られていた。
差し込む光線の中、国王の脇には、顔色を失った王国の大臣が、身じろぎをこらえながら、すずらんのように列をなしている。
その前では、たった今報告を終えたばかりの使者が、ひざまづいたまま不安そうに国王を見上げていた。顔に、疲労と恐怖の色が色濃く張り付いている。
列の端に位置する大臣の一人、ジェンラウァが使者に立ち去ってよいという合図を送ると、使者は救われたかのように謁見ノ間から急いで出ていった。若き大臣ジェンラウァは使者の退出を見送ると、国王クワラル三世の方を仰ぎ見た。
クワラル三世は、やがて、ゆっくりと目を開いた。ジェンラウァには無限の時が流れたかのような印象を受けた。
「ルーンヴァイセムを呼べ。タルカサスもだ。あとは…、コルエアとサマラチカ、…ダリオットも呼んでこい。それから、…」
謁見ノ間の長く重い沈黙をやぶって国王は次々と人の名前を挙げていく。御前会議の時刻と参加者の名前が定まると、それらの人々を呼びにやるための大臣たちの声や足音も重なって、謁見ノ間はようやく普段の活気を取り戻した。
『まるで、国内の重要人物を全て集めようとしているみたいだな…』
我ながら不謹慎だとは思いながらも、ジェンラウァは城の狭い石階段を軽やかに駆け降りていった。
- つづく -