目の前には、剣の山が大きくそびえ立っている。左右はゆるやかな岩壁になっており、ジュヴナントらは、ちょうどコの字の中にいるかのように岩肌に囲まれていた。左右の岩壁の間は五〇〇メートルほど。
ジュヴナントらはそこで立ち止まった。
彼らの先には小高い丘があった。その丘を越えれば、もう剣の山である。剣の山までは、後わずかだった。
「来たか…」
そう呟いて、ジュヴナントは剣を抜き放った。エスミの薄暗い空を切り裂くかのように、光の剣がキラリと光る。
静かに、そして、ゆっくりと、丘の上に黒馬にまたがった黒騎士が姿を現した。黒騎士ロイアルスの左右には、手に武器を携えたオークたちがずらりと並んでいる。ロイアルスの横には、黒術師ザナーガの姿も見える。
「あいつ…」
クレアが低い声で唸る。白銀の森でのことは忘れてはいない。それは、エンターナとシンフィーナも同じだ。丘の上の黒騎士を睨みつける。
ロイアルスがゆっくりと剣を抜き、そして空に上げた。それを合図として、オークたちがいっせいに丘の斜面を駆け降りる。ジュヴナントらも武器を取り出し、オークを迎え討つ体勢をとる。
ついに、剣の山の、長く激しい戦いが始まった。
「ようし、準備はできたようだな」
ドゥルガは背後のオークたちを見渡した。
大森林の中のルキラート湖のほとり。この狭い広場に五〇〇近くのオークが集結していた。
「ふっ、目にもの見せてくれる」
悠久の山脈の西、黒がね連山の北に進軍しているオークはおとりであった。数万ものオークの群れと聞けば、ベルタナスも黙ってはいられないだろう。おそらく全力をもってこれを迎え討とうとするはずだ。そこにドゥルガのつけこむ隙がある。
数万のオークをおとりとできるほどの力。それが闇の勢力の力なのだ。
ルキラート湖から大森林を抜け、コムラタ川に沿ってベルタナスの中枢、ナムラに進む。これがサロアが策謀し、ドゥルガが実行しようとしている計画の青写真であった。ベルタナスの主力は悠久の山脈の西に集結しているはずである。ナムラ周辺の警備は手薄なはずだ。
オークの軍勢はすでに隊列を整えている。
「ふっ、はーっはっはっはっは…」
ドゥルガの笑い声が森にこだました。
一部の兵力は、先発部隊としてさらに西方のコルミアや北方三都へ向けて大森林の中を進んでいるはずであった。ルキラート湖のほとりに集結したこの部隊とあわせて、ヴェンディ各地で一斉に攻撃を開始するのだ。
その時。
「そういうことか」
不意に、前方の森から声がした。
驚いて振り向くドゥルガ。
そこには、うつろな顔をしたオークが一人立っていた。
ドゥルガが怪訝そうな顔で眉をしかめる。
と、オークの体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
その後ろから姿を現したのは…。
「お、おまえは!」
血の滴る剣を片手に、古びたプレートメイルに身を包んだ男。灰色になった頭髪と口髭。森と湖のすべてが、息を殺して彼を見守っている。
タルカサス・ウィン。
かつて、ベルタナス一の剣士と唄われた勇者。
「こんな所に集まっていたとはな…」
タルカサスはそう独白した。ここしばらく、大森林の中をあちこちとさがしまわったかいがあったというものだ。
「おまえは…。ふっ。飛んで火に入る夏の虫とはおまえのことだ。あの時の恨みは忘れん! この左目の傷の痛みは…。やれっ! こいつを血祭りに上げろ!」
ドゥルガの号令に、五〇〇近いオークがいっせいに動いた。狙いはタルカサスただ一人。
「おまえらごときに倒されるものか」
タルカサスは口の端に笑みを浮かべると、剣を振りかざし、オークの群れに向かって地をけった。
人知れぬ北の地で、もう一つの戦いが始まった。
オークの群れのただ中を走りながら、クレアが雷帝の杖を振り下ろした。
いくつもの雷光が杖の先端からあふれ出、オークたちが宙に舞う。
「死にたくないやつは退きなっ!」
クレアの叫び声が、戦場に凛と響く。
ジュヴナントが剣を振るい、キリアーノが斧を振り回す。オークの首が宙に飛び、鮮血が空を染める。
ヤンは弓に矢をつがえたまま、クレアやジュヴナントの後を追った。
剣の山が近付くにつれて、より強くなっていく奇妙な感覚…。心にねっとりと絡み付いて離れようとしない不快感。
『こんなもの…』
原因は分からなかった。だが、その原因が自分の中にあることに、ヤンはまだ気付いていない。
走りだそうとしたエンターナとシンフィーナの前に、黒い影がふわりと降り立った。その瞬間、オークたちが彼らのまわりから退き、三人はオークにぐるりと囲まれる形となった。
「誰だ、おまえは?」
目の前の黒い影に向かって、エンターナが怒鳴った。
男は丈の短い黒のローブをまとっていた。肩まである長い白髪は頭頂まで禿上がっている。そして、爬虫類を連想させるのっぺりとした顔だち。この男が味方だとは到底思えなかった。
「私の名前は、ザナーガ。以後、お見知りおきを。キッヒッヒッヒ…」
そう笑って、黒い男は片手を上げた。
地面がゆっくりと盛り上がり、岩の巨人が姿を現した。ぱらぱらと降る土塊をまとった岩の巨人。
「そうか、あれはおまえが…!」
エンターナは、白銀の森での岩の巨人を思い出していた。あの時は、森の外の火を操る魔法使いだと思っていたが…。
「ここはエスミの地。あなたがたでは精霊は呼べませんよ。どうしますかね? キッヒッヒッヒ…」
岩の巨人の後ろで、ザナーガは笑った。
「だぁーっ!」
キリアーノの斧がオークの体を斜めに両断した。
オークを見れば片っ端から斬りつける。そのせいで、キリアーノはジュヴナントたちから少しずつ遅れ始めていた。
右にまわったオークが曲刀を振り下ろす。キリアーノは、それを斧で受け止めた。その隙をついて、別のオークがキリアーノに斬りかかる。とっさに身をかわすキリアーノ。だが、一瞬速く、オークの刀がキリアーノの左股を切り裂いていた。
「ぬっ…」
吐き捨てるように叫んで、キリアーノは刀を弾き飛ばすと、足を斬りつけたオークを脳天から真っ二つに切って捨てた。
「ぐ…」
鋭い痛みが走った。この足では、先を行くジュヴナントたちに追いつくのは無理だろう。
キリアーノは、剣の山の神殿に背を向け、仁王立ちになった。彼らの後を追って、数多くのオークが向かってきている。その様を見て、キリアーノはふっと笑った。自分の考えがおかしかった。
誰にも邪魔されることなく、オークを斬れるのだ。自分にとって、これほどふさわしい場所があろうか?
「ここから先へは、もう誰も行かさん!」
キリアーノが黒の斧を構えなおす。破れたズボンの隙間から、赤い血が流れ出ていた。
『あいつは…』
丘を駆け登りながら、クレアの目は黒騎士に注がれていた。
白銀の森での、あの異様なまでのプレッシャーは忘れていない。クレアの渾身の力を込めた呪文を、黒騎士は容易く返したのだ。
だが、道は一本。ロイアルスのいる所を通らざるをえない。
『あいつと戦うのは得策じゃないわ…』
黒騎士の力のほどは、いまだ未知数なのだ。いくら修業をつんだとはいえ、容易に勝てる相手ではないことは分かっている。戦うには、かなりの犠牲を覚悟しなければならない。
倒すべき敵は神殿にいる。この黒騎士じゃない。
クレアは雷帝の杖を高く掲げた。
口の中で呪文を呟く。
それにつれて、杖の先の光が膨らむ。その杖の先からいく筋もの光がのびたかと思うと、黒騎士の周囲で、次々と光が弾け、まばゆいばかりの障壁をつくった。
「今よ! 今のうちにあいつの脇を駆け抜けて!」
クレアが叫ぶ。その間も、次々に光が杖からあふれ出ていく。
わずか一ヵ月足らずの間に、クレアは雷帝の杖を完全に自分のものとしていた。
これでも、めくらましくらいにはなる。
全力で駆けながら、クレアはそう考えた。
ロイアルスが本気になれば、こんな子供騙しなど容易く破れるだろう。それまでに、脇を通り過ぎ、安全な場所へ行かなければならないのだ。
クレア、ジュヴナント、ヤンがロイアルスの脇を駆け抜ける。と、それに気付いたロイアルスが、彼らの方に向き返る。
その瞬間、クレアは手の中に火球を掴み、ロイアルスの足下めがけて放った。地面が盛り上がり激しく破裂する。ロイアルスは一瞬躊躇した。その隙に、クレアらはロイアルスの脇を走り抜けていた。
振り返ったロイアルスの目には、小さくなっていく三人の姿が見えた。
「よっと!」
オークの剣を巧みにかわしながら、トットは必死にジュヴナントたちの後を追った。
翼の靴が、彼をいつもの何倍もすばしっこくしていた。
左右にひらりひらりとオークをかわす。
そうこうしているうちに、トットは、黒騎士ロイアルスのすぐ近くまできていた。ジュヴナントらはロイアルスの遥か向こうにいる。追いつくにはこの黒騎士をかわさなければならない。それは、トットにとっても至難の業だ。だが…。
『あいつ、向こうを見てる…』
去り行くジュヴナントらを見つめるロイアルス。トットはできるかぎり音をたてないように近付くと、その脇を一気に駆け抜けた。
こうして、トットはまんまとロイアルスの脇を通り抜けることに成功したのである。
ジュヴナントが剣を横に一閃させると、オークの首が宙を飛んで固い地面の上に落ちた。
「今のうちに中へ!」
ジュヴナントが叫ぶ。クレアが神殿の扉の中に駆け込む。ヤンも、手近なオークの額を矢で射抜くと、クレアに続いて神殿の扉をくぐった。
それを見届けざま、ジュヴナントはオークを牽制しつつ扉の中に入った。そして、内側からばたんと扉を閉め、かんぬきを下ろす。
これでこの扉は外からは開けられない。
扉に背をもたれかけさせたまま、ジュヴナントはふぅと息をついた。
「ジュナ…」
その声に、ジュヴナントは顔を上げた。ヤンが薄暗い神殿の奥を見つめたまま立っている。
そして、その先には、赤い絨毯が敷き詰められた長い廊下が、まっすぐにのびていた。
- つづく -