剣の山の中腹の神殿。その祭壇ノ間で、ミリアーヌは片膝をついたまま、顔を上げることができなかった。
彼女の隣には、四魔将に名を連ねる、グヮモン、ドゥルガ、ロイアルスが同じようにひざまづいていた。向こうには、黒術師ザナーガの姿も見える。
彼らは待っていた。
神殿の中の空気が、息苦しいほどにピンと張りつめている。
と、突然、闇の中から、バサリとマントを翻す音が聞こえた。魔皇帝サロアだ。黒いマスクをつけたサロアは、ゆっくりと歩を進めると、祭壇の上に備え付けられた豪華な椅子に腰を下ろした。
「皆の者、今日はよく集まってくれた」
薄笑いを浮かべながら、サロアは皆を見渡した。
「今日は、皆に紹介したい者がいる」
サロアが後ろの闇に向かって手招きした。ドゥルガらがじっと見守る中、闇が人型に切りとられ、長い黒のローブに身を包んだ一人の女性が姿を現した。肩まであるゆったりとしたはしばみ色の髪をさっと掻き上げて、彼女はサロアの隣に立った。
神殿の中に驚きと動揺が広がる。
「そ…そんな…」
中でもミリアーヌの驚きが一番大きかったろう。ミリアーヌには、自分の目が信じられなかった。なぜなら…。
「これが、私の妹であり妻である、リディだ」
サロアの紹介の後、リディは冷たい目で眼下にひれ伏す臣下の者たちを見下ろした。ミリアーヌの背筋がぞくりとした。
今、サロアの隣に立っている女性リディこそ、ミリアーヌ自身がさらった女性ルシア・オーセフその人なのだ。
『グヮモン様はこのことを知っていたのか…?』
大森林でのルシアの変貌ぶりを報告した時のグヮモン様の驚きに、なぜ、私は気付かなかったのだろう? …そうだ。この、心臓を冷たい手でギュッと掴まれたかのような感じは、あの大森林でのルシア・オーセフのものと同じだ…。
ミリアーヌがグヮモンから受けた指令は、ルシアという女性を殺さずにこの神殿まで連れてこいというものだった。今まで、その意味を深く考えたことなどなかった。
「皆さん、よろしく頼みますよ」
乾いた声で、リディがそう言った。
「サロア様、リディ様、万歳!」
ドゥルガが顔を上げて叫ぶ。残りの者たちもそれに続いた。神殿の中が万歳の合唱に包まれる。
『ようやくだ。二人がそろったのは…』
ただ一人、闇司祭グヮモンだけが、そんな様子を見守りながら口元に薄笑いを浮かべていた。
「皆に集まってもらったのは他にも訳がある」
そう言ってから、サロアは一息おいた。あたりがしんと静まる。
「我々は、いよいよヴェンディに対しての侵攻を開始する」
サロアが声高らかに宣言した。神殿の中に歓喜の色が広がる。
それは長年の彼らの夢でもあるのだ。
「サロア様!」
ドゥルガが、喜びに体を打ち震わせながら、サロアに進言した。
「何だ?」
サロアが尋ねる。
「その指揮、ぜひともこのドゥルガに。あんな人間どもなど、このドゥルガが容易く蹴散らしてくれましょうぞ。それに、我が部下ディアグのこともあります。裏切者のセイナの始末もドゥルガにお任せください」
ドゥルガが深く頭を下げる。サロアはそれをじっと見下ろした。
「よかろう。私に策がある。その役目は、おまえに任せよう。だが、まずは人間どもの始末からだ。セイナのことはその後でいい。分かったな?」
「は…はっ!」
ドゥルガは床に頭をこすりつけるようにして、サロアの命を受けた。
満足そうにサロアが皆を見渡す。
「グヮモン、ロイアルス。おまえたちは剣の山に残ってもらおう。ここに来ようとしている愚か者がいるからな。そいつらを迎え討ってもらう」
「御意…」
グヮモンとロイアルスも静かに頭を下げた。
リディが、サロアの後ろで、静かに、そして、あやしく微笑んだ。
「ふっ…、はーっはっはっは…」
もう少しで野望が叶うのだ。ヴェンディを、そしてグルナ=デ=フォンタルを、この手中におさめるのだ。
薄暗い神殿の中には、いつまでもサロアの笑い声がこだましていた。
「このところのオークどもの動きからすれば、間違いはなさそうだな…」
森の中の下生えを切り開きながら、一人の戦士が獣道のような細い道を進んでいた。
日に焼けた体を古びたプレートメイルに包み、腰に長剣を差している。日に焼けて灰色になった短い髪と口髭。鋭い目が森の中の気配をさがしていた。
「まだいるようだな…」
彼は、剣を静かに抜き取った。いくつかの気配が彼のまわりにうごめく。
「オークどもめ。このタルカサスにかなうとでも思っているのか?」
王国一の剣士とうたわれた男は、そう呟いて森の中を駆けた。
ナムラ城の中は、オークとの戦いで傷ついた者を収容する野戦病院さながらであった。日に日に増える患者に、部屋が間に合わなくなりつつある。廊下には部屋に入りきらなかった者が横になっていた。日に焼けた肌に白い包帯が痛々しい。皆、どこかを怪我していた。
「どうした? おまえはもう降参かい? 情けないやつめ」
「何だと!? 誰が降参だと言った、誰が!」
赤の部隊隊長コルエアの馬鹿にするような言葉に、サマラチカが怒鳴った。
「このサマラチカ、だてに青の部隊を率いているわけじゃあないんだぞ」
サマラチカが、コルエアに詰め寄る。
二人とも体のあちこちに包帯を巻いていた。
「ふん。どうだか」
鼻で笑って、コルエアはそっぽを向いた。
サマラチカの薄くなりかけた髪が乱れていた。顔にも疲労の色がはっきりと見て取れる。
数日前、サマラチカ率いる青の部隊は、黒がね連山近くでオークの突然の襲撃を受けた。死者こそは少なかったものの、隊員の半数近くが怪我で戦線からの離脱を余儀なくされた。しかし、青の部隊だからこそ、被害がその程度ですんだのである。普通の部隊なら全滅していてもおかしくない状況だったのだ。そんな状況を切り抜けたのは、ひとえに、サマラチカと隊員の勇猛さに他ならない。
だが、サマラチカの喪失感は大きかった。
オークの攻撃は、悠久の山脈近くでいよいよ激しさを増していた。東方では、サマラチカの青の部隊のように、オークとの戦闘で傷ついた者が多く出はじめていた。そのため、どうしても大森林方面の部隊を悠久の山脈に回さざるを得ない。
ジェンラウァは、大森林方面の警備が薄くなることを懸念したが、悠久の山脈方面への軍の派遣は急を要していた。
サマラチカもコルエアも、またすぐに戦場へ出なければならなかった。それは、王城の近衛部隊、青の部隊と赤の部隊の責務であった。二人がことあるごとに手柄を競いあっているのは、自分が王城の近衛部隊であるという誇りからなのだ。
悲しんでいる暇などない。戦場ではそれが命取りになることはよく分かっていた。
「見ていろよ。この前は油断しただけだ。今度はオークの部隊を全滅させてやる」
そう言って、サマラチカはコルエアにくるりと背を向けた。
『がんばれよ…』
振り向いたコルエアは、去りゆくサマラチカの後ろ姿に向かって、そう心の中で呟いた。
「がっはっはっは! いいか! 出発だーっ!」
焦茶の巨馬にまたがって、ドゥルガは後ろのオークたちに向かって叫んだ。
剣の山の麓には、数千のオークが集められていた。皆、簡素な皮の鎧を着、手に思い思いの武器を携えている。そんな集団が、ドゥルガの馬の後について、のろのろと剣の山を出発した。
ドゥルガは、後に続くオークたちを見て、にやりと笑った。
もうすぐ、ヴェンディの人間どもに一泡吹かせてやれるのだ。こんな楽しみはない。
ドゥルガは、口元に笑みが浮かぶのを抑えることができなかった。
剣の山から西へ、長いオークの列がのびていた。
剣の山の中腹の神殿の中から、グヮモンは出発するドゥルガを見ていた。
「ふ…。成り上がり者の馬鹿が…」
グヮモンは嘲笑した。
誰もいない小さな部屋の中を、傾いた日が赤々と染め上げている。オークの列が地面に長い影を落としていた。
「すべてが、私の思いどおり。皆、私の手の中で踊らされているとも知らずにな…」
自然と口元に浮かぶ笑み。だが、それは一瞬で消えた。
「…しかし、なぜ扉は開かない…? 二人はそろったはずなのだが…」
別の一室では、ロイアルスとザナーガがチェスを指していた。
「キッヒッヒッヒ…。これはこれは、なかなかの妙手ですねぇ」
そう言って、ザナーガは駒を動かした。
ロイアルスが無言で手を返す。
「いやいや、そんな手があろうとは。キッヒッヒッヒ」
ザナーガは一人で喋りながら、チェスを指していた。ロイアルスは終始無言であった。だが、ザナーガは少しも構わなかった。黒術師ザナーガが話しかけることのできるの人間は、ここにはロイアルスを除いて他にいないのである。
神殿の奥では、サロアが長椅子にゆったりと腰を下ろしていた。その傍らには、リディが静かに立っている。
部屋の中は薄暗い。わずかに、臘燭の光だけがぼんやりと部屋を照していた。
「リディ…」
目を閉じたまま、サロアがリディに声をかけた。
「何でしょう?」
リディが尋ねる。美しい声だ。聞く者の耳に快くとけこむ。
「…いや、何でもない。少し眠りたい。三時間たったら起こしてくれ」
「はい…」
そう答えて、リディは部屋を出た。
ミリアーヌは、神殿の外に立って、西の山脈に沈む太陽を見つめていた。地平線のあたりで揺れながら、太陽はすでに半分以上姿を隠していた。
遠くから吹く風が、ミリアーヌの栗色の髪を揺らす。
『ジュヴナント・クルス…』
敵である人物。だが、その男に自分が何か懐かしいものを感じているのも確かだった。
『…いったい何だというのだ?』
遠くを見つめる彼女の胸元で、赤い宝石のネックレスがキラリと光った。
- つづく -