小さな迷子の物語

A Small Trip of Wonder

 うちに小さな迷子がやってきた。
 ある日の朝、ベランダに立っていると、バサバサッと音がして、顔を上げたときにその子と目が合った。
 黒いつぶらな瞳。オレンジに染まったほっぺ。あたまの先にはちょこんと逆立ったとさか。
 全長30センチほどで全身レモン色のその子は、青空をバックに物干ハンガーに留まって、じっとこちらを見ていた。
 後で調べて知ったのだが、オカメインコのルチノーだった。
 目が合ったときに、なぜだか名前は「ぴーちゃん」に決まっていた。
 すぐにまた飛んでいってしまうだろうと思った。
 でも、いつまでたっても、ぴーちゃんはそのまま留まっていた。
 だったらと、部屋に戻って、小さな器に水を入れて、差し出してみた。
 期待していなかったのに、ぴーちゃんはそのまま2口飲んで、ててて、とこちらに歩いてきた。
 思わず手を出した。
 ぴーちゃんは、迷わず手に乗ると、そのまま腕の上を歩いて。そして首の後ろまで行ってとまった。
 …え。そこ?
 しばらくじっとしていたけれど、ぴーちゃんがそれ以上動く気配はない。
 仕方がないので、そっと動いてみると、ぴーちゃんは器用にバランスをとったまま、首の後ろに留まり続けている。
 追い払うわけにはいかないしなぁ。
 とりあえず洗濯かごを2つ重ねて、即席の鳥かごを作製。
 何とか手の上にぴーちゃんを移して、それから鳥かごの中へ。
 ピギャッと何度か鳴かれたけれど、終始ぴーちゃんはとてもおとなしかった。

 さて、それからの家族会議の結果、元の飼い主さんを探そうということになった。
 きっと、どこかかから逃げ出してきたのだから。
 ぴーちゃんも飼い主さんも、きっとお互いを探しているはずだから。
 自宅のマンションの玄関ホールに即席で作ったチラシを貼付。警察へは、迷い鳥を保護していることを届出。
 近所の人たちへの聞き込みをした際に、小鳥を飼っている人から餌を分けてもらい、鳥専門の動物病院の存在を教えてもらった。その動物病院へは、電話で迷い鳥がきたことを言伝。
 近所のスーパーや図書館へもチラシを貼ってもらえるように交渉。
 マンションの各階を回って、インコを飼っている人を知っていないか捜索。
 ネットで調べてみると、近所に鳥専門のペットショップがあることが判明。そこへも行って、チラシを渡し言伝。
 そんなこんなで、ばたばたと半日が経過した。
 鳥かごの中へは、もらった餌と水を入れておいたけれど、ぴーちゃんはまだ緊張しているのか、歩き回るだけで、ほとんど食べたり飲んだりはしなかった。
 大丈夫かな…。

 その夜に、少し動きがあった。
 チラシを見た同じマンションの人が、逃げたインコを探しているチラシが近くのショッピングセンターに貼ってあったことと、その人の連絡先を教えてくれたのだ。
 さっそく、その人と電話で話をして写真を送った。結果は…。
 残念ながら、違うオカメインコだった。
 最後に電話口で、その人が少し涙声で、連絡をくれてありがとうと言っていたことが忘れられない。
 何としても、ぴーちゃんを飼い主さんの元に戻してあげたい。

 私は鳥を飼ったことがない。もちろん、オカメインコも。
 なので、まずはネットでオカメインコの飼育方法を調べてみた。幸い情報は豊富にあった。
 その中で、オカメインコは1日に少なくとも1~2時間かごから出してあげる(放鳥というらしい)をしてあげる必要があるということが分かった。
 部屋の扉と窓を閉め切って、そっと鳥かごを開けてみた。
 すると、ぴーちゃんはすぐに腕に乗って、肩へ向かって駆け上がっていった。肩と首の後ろあたりをうろうろしながら、でも飛び回ることはしなかった。あたりをきょろきょろと見回して、時折そっと首をかしげている。
 きっと、そこにいることが落ち着くのだろう。腕に移そうとすると、甘噛みして怒った。
 でも、最終的には腕に移して鳥かごの中へ。
 その夜はそれでおしまい。
 今夜はゆっくり休むんだよ。

 夜には首の後ろがチクチクした。
 ぴーちゃんの爪で、いくつも小さな傷がついているようだ。
 軽く消毒はしたけれど、対策は考えないといけないな。

 朝になったら、ぴーちゃんは少し元気になっていた。
 鳥かごにしている洗濯かごによじ登っては動き回っている。
 よかった。
 その日は、問い合わせがあったとの連絡が警察からあったが、別のインコであることが判明。その他には進展なし。
 飼い主を見つけるのは短期戦だと思っていた。
 ぴーちゃんがどこから飛んできたのかは分からないけれど、近くであればチラシをあちこちに貼ることで見つけられる可能性がある。きっと向こうもぴーちゃんを探しているだろうから。
 一方、もし遠くから飛んできていたら。
 飼い主さんを見つけることはかなり難しくなるだろう。その場合は、長期戦を覚悟しなければならない。

 夜を迎えた。
 ぴーちゃんの飼い主さんが見つかるまでに、これからどれだけの時間が必要になるのか分からない。なので、きちんとした鳥かごを買うことにした。
 買ったら飼い主さんが見つかるというのはよくある話なので、験を担ぐつもりもあった。
 近所の鳥専門のペットショップへ行って、店員さんに相談しながら、大きめの鳥かごと餌を買った。
 これでぴーちゃんが少しでも快適になるのなら。もしかしたら、長期戦になるのかもしれないのだから。
 鳥かごの中のレイアウトをどうするかについては、かなり腐心した。
 新しい鳥かごは、窓の近くに置くことにした。
 今晩からは、ぴーちゃんを鳥かごから出すときに、首にタオルを巻くことにした。爪が引っかかる心配のないパイルのないタオル。
 このタオルの効果はてきめん。爪で首に傷がつく心配はなくなった。これで安心してぴーちゃんと遊ぶことができる。
 たくさん遊んだ後にぴーちゃんを新しい鳥かごへ移してあげた。思ったよりも、すんなりと新しい鳥かごへ入ってくれた。
 餌を少し食べてくれたので喜んだのだけれど、またすぐに食べなくなった。
 これまでのストレスからか、ぴーちゃんは下痢をしているようだった。
 この環境に早く慣れてくれることを、心から祈った。

 翌朝。
 ぴーちゃんを外に出しながら鳥かごの掃除。ピギャッとは鳴くけれど、意外におとなしい。さほど緊張している感じではないので、午前中はこんなものなのかもしれない。
 ゆっくりとした時間が流れた後。夜には雨になった。
 この天気の中、ぴーちゃんが屋外にいる事態にならずにすんだことに、ほっとした。
 その晩は9時頃からぴーちゃんが激しく鳴き始めた。ピギャッピギャッピギャッ。何かが起こったわけではなく、早く出してというアピールらしい。
 いつもこの時間に遊んでもらっているのだろう。ならば、飼い主さんは勤め人の可能性が高い。
 でも、ぴーちゃんは、鳥かごから出してあげても、肩の上でのんびり。ゆっくりと羽づくろいをしている。
 それでいいのかい、と思いながら、ゆっくりとした時間を過ごす。少しずつ距離が縮まっていく感じ。
 餌をあまり食べないのが心配だけれど、今できることは優しく見守ることくらい。
 たくさん遊んだ後は、鳥かごに戻ってもおとなしい。
 いっぱいご飯を食べるようになって、少しでも元気になってほしいな。

 そして次の朝。
 ぴーちゃんはあまり元気がなかった。
 いつもより緊張が強いようだった。
 思えば、風の強い日だったから、風の音におびえていたのかもしれない。
 餌をあまり食べていないので、体力が維持できているのかが心配だった。
 その日の鳴き声はいつもよりも小さく。反対に、心配は大きくなっていた。
 病院に連れて行こうか相談をする。
 病気の心配はあるけれど、病院に連れて行くまでのストレスも心配。
 どうしたらいいのか、ずっと悩んでいた。

 しかし、その日の夕方から、事態は大きく動くことになった。
 突然、ある人から電話があった。
 鳥専門の動物病院で、逃げたオカメインコを保護している話を聞いたという。
 最初に電話で迷い鳥があったことを言伝したところだ。
 その人のオカメインコの特徴は、ぴーちゃんと一致する。
 逃げたのは、私がぴーちゃんに会った2日前。
 可能性は十分にあった。

 夜10時に、その人がうちに来ることになった。
 もしその人がぴーちゃんの飼い主さんだったら。
 ぴーちゃんとの時間はあと1時間ちょっと。

 あいかわらず鳴き声は小さいけれど、首にタオルを巻き始めると、鳥かごから出してもらえる合図だと分かっているのか、急に元気になる。
 ぴーちゃんは、あいかわらず首の後ろや肩の上が好きだ。
 いいよ、今日は思う存分好きにしたらいいよ。
 鳥かごの掃除をしながら、ゆっくりとそう語りかける。
 伝わっているかは分からないけど。伝わっていたらいいなと思いながら。
 そんな時間はあっという間に過ぎた。

 その人は息を切らして現れた。
 そして、ぴーちゃんとの面会。
 おっかなびっくりのその時だった。突然、甲高い音が鳴り響いた。
 ピギャー!ピギャー!ピギャー!ピギャー!ピギャー!ピギャー!…
 その人は、ぴーちゃんのパートナーだったもう1羽のオカメインコを連れてきていた。でも、もう1羽の鳥かごは袋の中。
 お互いの姿が見えない中で、2羽のオカメインコが奏でる鳴き声の共鳴だった。
 こんな鳴き声を聞くことができる機会は、一生でもう二度とないだろう。
 もう誰も疑いを持たなかった。
 ぴーちゃんが元の飼い主さんに再会した瞬間だった。
 そして、見違えるほど元気になったぴーちゃんは、部屋の中を飛び回った。
 何だよ、ちゃんと飛べるんじゃないか。
 最後にそんな姿を見ることができたのが嬉しかった。
 ぴーちゃんが逃げ出したのは、私に会う2日前の午前中。直線距離にして、うちから4キロ程度。
 丸二日間、ぴーちゃんはどうやって過ごしていたのだろう。どんな想いでここへたどり着いたのだろう。
 不思議だった。小さな生命の強さだった。
 たくさんの奇跡が重なって、小さな命がつながった。
 その人はさんざんお礼を言って。そして、ぴーちゃんを連れて帰っていった。

 後には、がらんとした部屋が残った。
 長いようで短かった、短いようで長かった、ぴーちゃんとの時間が終わったのだと、その時に実感した。
 いつかそんな時が訪れることは分かっていたのだけれど、訪れないような気もしていた。
 いろんな想いが胸に去来する。
 これでよかったんだ。寂しいけれど、でもこれで。ね。

 100時間足らずの、小さな迷子の物語は、こうして幕を閉じる。
 ぴーちゃんの本名は「バニラ」と言うらしい。
 なぜだろう、その名前を知っていたような気がしたのは。
 明日の空はきっと青いのだろう。
 首の後ろがまだ少し痛痒い。

- 完 -