雪解けとともに、今年もまた春がやってきた。
 懐かしい思い出の季節。
 時は数十年前、まだ私が幼かった頃にさかのぼる…。

『春』

~ 池のほとりに咲いた花 外伝 ~

 皆が寝静まった夜更け。小高い丘の上にある古びた神社の境内。こんな時間に訪れる人もないその空間は、天にかかった満月によってほの白く照らし出されていた。
 だが、そのときの私にはそんなことはどうでもよかった。
 歳はまだ5、6の頃だったろう。感傷に浸るには若く、不安になるほど幼くはなかった。
「ちぇっ。全然ないんだもんな…」
 神社の古びた賽銭箱の上に腰を下ろしたまま、何気なく私が愚痴をこぼしたときだった。
 まわりの暗闇に、突然、柔らかな光が広がった。淡い光が、境内の木々を照らし出し、神社の影を描き出していく。
「え…?」
 光の源は神社の裏手にある大きな池の方らしかった。
 心臓が高鳴る。
 私は急いで賽銭箱の上から飛び降り、そのまま池へと走った。

 池のほとりにまばらに生い茂った木立。ようやく新芽が芽吹き、春の装いを新たにした頃だ。それまで夜の闇の中で静かに眠っていた木々が、何となくざわめきだしているかのような感じだった。
 その横で、私は凍り付いたように不思議な光景を見つめていた。
 柔らかな光をまとった大きな光球が、天からゆっくりと地上へ降りつつあった。
 まるで時間の流れがとまっているかのような光景だった。
 そのまま光球は、ようやく若草が芽吹いたばかりの草原にゆっくりと着地し。同時に、暖かな光が拡散して、私はその中に草原に立つ一人の少女の姿を見ることができた。
 薄紅色の着物をまとった長い髪の少女。
 彼女はゆっくりと目を開いた。
 それはわずか数分間のできごとであったろう。しかし、私には永遠とも感じられる時間だった。
 木立の脇で呆然としていたであろう私と目があった彼女は、だが、私の予想に反して、にっこりと微笑んだ。
「こんにちは。あ、こんばんはかな? この時間なら」
 でも、私は、ぽかんとしたまま何の返事もできなかった。
「ねぇ、名前はなんていうの?」
「お、おいらは…宗弥」
 何とか私が答えると。
「へぇ、宗弥くんか。あたしの名前はアオイ。よろしくね」
 …そう。この出会いが私の人生を変えることになる。

「はい、もういいわよ。ありがとう」
 葵さんが私に向かって手を振った。
「これで全部おしまい。助かったわ」
 私が、持っていた腕の長さほどの銀色の棒を葵さんに手渡すと、彼女は取り出したときと同様にその棒をどこへともなくしまった。
 葵さんがここへやってきたのは、調査とかいうものをするためらしい。頼まれれば断るわけにもいかないし。ということで、私は彼女の手伝いをすることになった。
 といっても、私がしたことといえば、よく分からない銀色の棒やら箱やらを持って立っていることぐらい。後は葵さんがまわりを走り回って何かしているのを見ていただけだった。
 私たちは、片付け(といっても大したことはないが)が終わると、池のほとりに突きだした大きな石の上に、並んで腰を下ろした。
「おかげで予定よりもずいぶんと早く終わったわ。ありがとう」
 そう言って微笑む屈託のない葵さんの笑顔に、私はちょっとどきっとした。
「い、いいよ、別にすることもなかったし」
 なぜか気まずくなって、あわてて目をそらす。
「でもさぁ、宗弥くん、こんな時間に神社で何してたの?」
「…い、いいだろ、別に何だって…」
 私はぶっきらぼうに答えた。
 …まさか、葵さんに賽銭箱の中を物色していただなんて言えるわけがない。
「あはは。別に言いたくなかったら言わなくていいよ。でも、こんな夜遅くだとお母さんとか心配しない?」
「…いないよ」
「え?」
「おいらみなしごだからさ。赤ん坊の頃、ここの神社のじいちゃんに拾われて…。ここら辺はおいらの庭みたいなもんだし」
「…ごめんね。変なこと聞いちゃって」
「いいよ。おいらもう慣れっこだしさ。でも…」
 一息間をおく。澄んだ夜空に心地よい静寂が流れる。
 なぜだろう。葵さんと話していると心が落ち着いてくる気がする。普段だったら、他人には絶対こんな話なんかしたりしないのに。
「おいら、じいちゃんに拾われたからここにいるけど。でも時々おいらって何なんだろうって思うんだ。いつまでもこの神社にいるわけにもいかないんだろうし。この先どうしたらいいのか、時々分からなくなるんだ」
 ほほをなでる風。早春の穏やかで心地よい空気。
「そっか…。でも、いいことじゃない」
 葵さんはそういって微笑んだ。ふわりと包み込むような暖かく優しい微笑み。
「自分の人生なんだからさ、思いっきり悩みなよ。とことん自分が納得するまで。それでいいんじゃない? でさ、本当に自分のやりたいことが見つかったら、後は自分の道を信じて進むことだよ。自分に胸はっていこうよ」
 私にとって、その笑顔がどんなに頼もしく見えたことか。胸の奥のつかえが、すっと溶けていくかのようだった。
「星、きれいね」
 葵さんが夜空を見上げてそう呟いた。
 満天の星空。夜空にかかる満月。それはこの世界を幻想的といえるほど白く染め上げていた。
 でも、私には、その光に照らされた葵さんの横顔の方が、ずっときれいに見えたのだ…。
 それから私たちは一体何の話をしただろう…。もうよく覚えてはいない。
 ただ、そのときの葵さんの横顔だけが、鮮烈に私の記憶に残っている。

「あ…?」
 ようやく昇った朝日で、私は目を覚ました。
「あれ、葵さん…?」
 私は神社のお堂の軒下に横になっていた。
 まわりにはいつもと変わらぬ見慣れた景色が広がっていた。
 昨晩のできごと。あれはすべて夢だったのだろうか。だが…。
 そのときになって、ようやく私は、私の上にかけられている薄紅色の着物に気がついた。
 それは昨晩葵さんが着ていたものだった。
 やはりあれは夢ではなかったんだ…。
 小鳥のさえずりが、やけに耳についた。


 それから数十年がたち、私は今ここにいる。
 葵さんの言葉ではないが、自分の道を歩いてきた。今さら後悔もない。
 …いや。ただ一つ心残りがあるとすれば。
 再び彼女に会うこと。
 これまでどんなときも、それをただ夢見てきた。
 ばかげているとは思いながらも、初めて稼いだお金で彼女のために浴衣を買った。薄い蒼の地に黄色の大きな蝶々の文様が入っているものだ。
 私が稼いだお金程度では、ちゃんとした着物なんて買えなかった。だが、満足のいく買い物だった。彼女に何かお礼がしたかった。
 だがそんな物ももはや意味をなくそうとしていた。
 私の顔に刻まれたしわの数が、これまでに過ごした時間の長さを物語っていた。私に残された時間が後どれくらいあるのかは分からない。ただ、決して長くないことだけは確かだ。
 再び彼女に会うことはできるのだろうか…。あきらめに似た気持ちを、必死に押し殺す毎日。
 春になると思い出す風景。
 あの日、花の咲く頃、彼女は突然現れた。
 今年もまた春がやってきた。
 そして…。

- 外伝 おわり -