過ぎたるは

 過ぎたるはなお及ばざるがごとし。
 何事も行き過ぎはよくないという故事成語である。
 そんなことは多くの人が分かっているのではあろうが、しかし、複雑な力学が働く場合には、えてして物事はそのような方向へと進んでいく。特に、資本主義の自由競争の中で、市場原理が働く場合はなおさらである。
 例えば、ある企業がすばらしいサービス(別に、物であってもよいが)を始めたとする。その便利さに多くの人々がそのサービスを使い始める。すると、他の企業(多くの場合はライバル企業)がより便利なサービスの提供を始める。もとの企業は、より便利になるように、負けじとサービスの改良を行う。そして、…
 このような競争は、ある意味人々の生活を豊かにすることに大きく貢献してきた。科学技術の進歩や経済成長等により、私たちが多くの恩恵を受けてきたことも事実である。
 では、先のサービスの改良競争は、どこへ向かっていくのだろうか。
 現代の競争の中では、立ち止まることは許されない。便利さを追求する改良競争は、自ら止めることができないため、いつしかそのサービスの利用者の本質のニーズから離れ、過剰なサービスへと変質していく。
 このような場合、乖離したニーズとサービスの溝を埋めるべく、また新しいサービスが提供されるというのが、これまで繰り返されてきた道である。
 それは、らせん階段のように同じところをぐるぐると回りながらも、少しずつ上っているような状態であろうか。
 各企業はそれぞれよかれと思って、便利さ向上のためにサービスの改良を追求するのだとしても、そんな追求の進んでいった先を正確に見通せているわけではない。
 便利さの追求の進むべき先とは、幸福につながるものであるべきと思うのであるが、楽であるからという単なる快楽に向かうこともままある。例えば、自分で考えずにすむことや判断しなくてすむことは楽である。便利さの追求とは、時にそんな方向にも進む。
 便利になったからといって、幸福になるとは限らない。楽であることが幸福でないとは言えないが、苦労した先にしかない幸福というものも、確かに存在すると信じている。
 それとも、こんな価値基準そのものすら、時とともに変わっていくのであろうか。
 世の中は止まらない。でも、自分自身は止められる。
 世の中の流れるスピードが、人が制御できないくらい速くなりつつある時代だからこそ、まわりがどうではなく、各個人が何を考えるのか、どれだけ想像できるのかが重要になってくる。
 先に、らせん階段のたとえを書いた。
 それが下り階段でないことを、望むばかりである。