SNS

 SNSで自らの発信(投稿)した情報に対する他者の反応ややり取りに高揚感を得た人は多いと思う(それがずいぶん昔で記憶に残っていなかったとしても)。この高揚感が、自己承認欲や自己顕示欲を刺激する。だからこそ、SNSはこれほどまで普及したのだと考えられる。
 しかし、情報の流れは非対称だ。
 ここがスタートラインになる。この事実は、テレビやラジオが主だった時代から、スマホが普及し、誰でもSNSで情報発信が容易になった現在においても変わらない。むしろ激化している。
 あなたに有用だったり興味深い情報(これを「意味ある情報」とする)を「常時」提供することができる人は少ない。つまり、多くの人が持っている誰かに提供できる意味ある情報には限りがある。
 しかし、それは「限りがある」のであって、「全くない」わけではない。だからこそ、多くの人は自己承認欲や自己顕示欲が満たされた経験を持つ。しかし、消費に供されていく情報量は膨大で、個々の持つ情報量では自己承認欲や自己顕示欲を十分に満足することは難しい。
 だから、少しでも注目を集めるために、インスタ映えが流行り、バカッターのような行動や不謹慎狩りが起こる。デマの拡散も同根かもしれない。情報を少し盛るというくらいはまだ可愛い方だが、行き着く先が虚偽や犯罪行為となると、これは重大な問題である。これはギャンブル依存症と同じだろう。そんな大げさな、と思うかもしれないが、実例はいくらでもある。
 SNSというツールを使いこなせている人も、確かに存在する。ただしその多くは、情報収集ツールとしての形でである。
 情報発信が「できる」ことと、「できている」ことの間には、ものすごく大きな壁がある。垂れ流しのコミュニケーションは、コミュニケーションではない。
 発信する情報が、社会(多くの人であったり一部の人であっても)に向けてではなく、自分に身近な特定の人に届けばよいという意見もあるだろう。しかしそれならば、そもそもSNSで関係のない人にまで向けて情報を発信する意味はない。
 SNSを運営するのは企業である。ならば、利潤の追求は必至である。多くの企業が広告モデルに収益を依存している状況においては、個人のプライベート情報こそが利益の源泉となる。だからこそ、他の人にとって必要かどうかには関係なく、プライベートな情報が投稿(収集)されるような仕掛けが作られやすい。それらは、他人にとって本当に意味ある情報であるかどうかに関係なく投稿され、容易に数多のジャンク情報と化し、最終的には運営企業にとって有用な情報となる。だからこそ、運営企業による、ツールとしての根本的な対策は難しい。
 そして、スマホの登場である。
 技術の進歩は凄まじいという他はない。手のひらサイズの端末が、往年のパソコンを遙かに凌駕する処理能力を持っているのだ。手軽に持ち運ぶことができ、情報にすぐアクセスでき、使いたいと思ったときにすぐ使える。
 SNSがプライベートを切り売りするためのツールとなっている状況では、常時携帯されるスマホとの相性は非常によい。SNSでは、自己承認欲と自己顕示欲を満足できる。だから依存しやすい。食事の時や人と話している時でさえ、常にスマホを手放さないのは、依存症と言ってよい。
 SNSやスマホを使いこなしている人はどれくらいいるだろうか。使われてしまっていないだろうか。
 どれだけ便利な世の中になったとしても、意味ある情報は自らが努力しなければ決して得られない。
 今見えている景色が全てではないことに気付くことができるかどうか。
 振り返りは、常に重要である。