"感じる"と"考える"

 TikTok等のショートコンテンツ(短編動画)が人気なのだそうである。YouTube等でもショート動画という形で簡単に投稿することができるようになっている。そして、これらの短編動画は、従来の映画やテレビにおける映像・動画とは、全く異なった様態をもっているように見える。
 以下は、私見である。
 スマホというパーソナルな情報端末の普及により、絶え間なく情報に触れることが可能になったため、人々はこぞってインターネット上に時間消費のための情報(娯楽情報)を求めた。というよりも、それだけ多種多様な情報を供給できるのは、すでに莫大な人数が参加していたインターネット上にしかなかったと言うべきかもしれない。
 まずはブログやSNSによる、身近な人の生活情報(文章と写真)が人々に供された。一種の覗き見であろうか。しかし、慣れてくると、それだけでは量・質共に物足りなくなる。通常、刺激的な生活を送っている知り合いは少ないのだから当然だ。その後、知り合いの枠からも飛び出しながら、Instagram等の写真やTikTok等の短編動画へと、より刺激の強い方向へ娯楽情報の対象は広がっていく。
 娯楽情報の氾濫が情報端末の普及を促進し、情報端末の普及が娯楽情報の氾濫を助長する。どちらが先ということはないのだが、この相互作用は、今のところとどまることを知らない。
 常に娯楽情報を渇望している多くの人々がいるような状況では、それぞれの短い時間の中で素早く処理できる情報が求められる。そして、短編動画は、この流れにうまくはまった。
 もちろん、従来の映像・動画等の娯楽情報がなくなった訳ではないのだが、新しく生まれた時間の多くは、短編動画等に代表されるプチ娯楽情報によって埋められていった。
 飢餓状態(中毒状態)にあっては、長く複雑な情報を自分で処理する時間がない。つまりは、考えることなく感じるだけでよい刹那的な情報を切れ間無く求める。そのため、「バズった(注目を集めた)」短編動画であっても、長期にわたって人気を博することは難しく、次から次へと新しくバズった短編動画が現れてくるという状況になりやすい。
 このように、現代では新しい情報が次々と現れ、そして次々と消費されていく。情報端末がパーソナルなものであるが故に、基本的に情報の消費は個人的なものに収束し、蛸壺化していく。
 一方で、人々は孤独を恐れ「共感」を求める。それは、情報消費が個人化するほど、より強い欲求となりやすい。安心感であり、承認欲求でもある。
 ただし、人々が刹那的な情報に慣れ親しんでいる現状では、シンプルで分かりやすい情報でなければ共感を得ることは難しい。だが、それは内容が正しく、理路整然としていることを意味しない。単純に直感・感情に訴えかけることが求められる。
 さらに言えば、ある程度広く共感を集めた情報に対しては、例え本当には分からなくても、感覚的に「分かった気」になることで、勝ち馬に乗るようにして共感の輪に入ることができる。そこにあるのは、判断や考えるという行為ではなく、根拠なく感じるという行為による無意識の同調である。
 しかし、現実というものは分かりやすいものではない。複雑で矛盾だらけである。そのため、現実という社会情報を把握する能力と、刹那的な情報を処理する能力とは、全くの別物である。
 情報を「感じる」のではなく「考える」能力は、一朝一夕に身に付くものではない。インターネットの世界の中に浸り続けるのも功罪があろう。自分では考えているつもりであっても、実は考えていない場合も多い。
 だが、考える能力を身に付けられなければ、トライバリズム(部族主義)、陰謀論、似非科学等の信者へ転落しかねない。芸術や文学も容易に衰退しよう。
 もちろん、娯楽情報自体が悪いわけではない。ただ、それは甘い誘惑であり、その他へ向ける時間が奪われやすい。ならば、情報について自分で考えるという訓練を、意識して少しずつでも重ねるべきであろう。
 便利になるとは、また、難しくなることでもある。