宗教について、一般的に論じることはとても難しい。
ある宗教の信者は、当然ではあるが、その教義を信じている。そして、別の宗教の信者は、当然別の教義を信じている。
それはつまり、お互いよって立つ基盤が違っているということである。
そのような状況で、お互い付き合っていくために大事なこと何だろうか。それは、相手は自分とは全く別のものを信じているということを、頭ではなく全身でちゃんと理解するということである。
ここで私は、各宗教の是非を論じようとは思わない。意味のないことでもある。
ただ、世間的に認知されている宗教団体とは別に、カルト教などと呼ばれるものが、無数に存在していることもまた事実である。
その団体自体が、世間から非難されているにもかかわらず、しかしその中には熱心な信者が存在することがままある。
まわりの声がまったくきこえないということであれば、まだ理解もできるのではあるが、非難されていることを知っていても、そしてその団体に問題があると本人には解っていても、そこから離れられない人もまたいる。
外から見れば、何だか奇異な感じがするだろう。解っているのならば、やめればいいのに、と。
しかし、問題は、解っていても、やめられないということなのであろう。
ここでいっているのは、物理的な意味ではない。その本人自身の精神的な意味でである。
おそらくは、一種の依存症であると考えられる。
この辺りは、賛否含めて、いろいろな識者にて議論されている内容だろうから、あまり深くは立ち入らないが、私なりの考えを少しだけ書いておく。
誤解をおそれずに書くならば、その人の場合、宗教とはマニュアルなのである。
自身が日々を過ごしていく上で、何をしたらよいか。もっと言えば、これをやっていさえすればよいという、ガイドラインのようなものだ。
その宗教をやめるということは、何の道標もない広野へと放り出されてしまうような気分なのではないだろうか。
だからこそやめられない。
占いなどに依存する人も、多かれ少なかれ似たような傾向だと思われる。
だが、多くの人は解っていることだが、人生にマニュアルなどはないのである。その辛さを味わいながら、自分で考え生きていくことこそが、人生の豊かさに繋がるのである。
ガイドラインは、自分の価値観で決めなければならない。もちろん、それが、独りよがりのものであっては、問題であるが。
異なる他人を十分に理解すること。それが、宗教を信じる以前に、まず必要であろう。
その上で、自分自身の立つ位置を決める。そして、自分の足で、自分の道を進めばよい。
そうなれば、今よりも争いごとは少なくなると思うのだが、いかがだろうか?
了