KY考

 最近、若者の間で、KYという言葉が流行っているそうだ(すでに流行遅れになっているかもしれないが)。
「そうだ」というのは、実際にまだ耳にしたことがないからだが。
 私のような技術系の人間からすれば、KYなんていうのは「危険予知」の略なのであるが、一般にはそうではないらしい。
 今さら説明するまでもないのだろうか、「空気読めない」の略なのだという。
 KY以外にも、そんな略語は山のようにあるのだが、今ここで問題にするのは、「空気読めない」という言葉そのものである。
 では、「空気を読む」とはどういうことか。
 基本的には。相手の気持ちを読みとること、であろう。もちろんここでいう相手とは、1人だけとは限らない。多数の場合もありうる。
 そしてこれは、相手との信頼関係の上に、暗黙の了解で成り立つものではないかと思うのである。
 しかし、最近の使われ方を見ていると、これとは若干異なっているような気がしている。
 空気を読む、イコール、場に波風を立てない。つまり、会話などを先読みすることによって、自己をそのグループの中で目立ちすぎることなく、自分の立場をコントロールすることではないか、と思うのである。
 そのような場合、自己の主張よりも、全体の意志が優先される。
 確かに、お互いのコミュニケーションは上手くいくだろう。少なくとも、表面上は。
 自分を、グループの中に同化させることによって、クループの構成員としての自分を認識し、そして安心する。
 各自が、そんなサイクルの中にいるのではないだろうか。
 ただ、少し考えれば解ることではあるが、そのようなグループの中では、お互いはある一定距離以上に近付くことはない。それは個々の領域の侵犯であり、波風の原因となるからだ。
 ただ、少しだけ思う。
 そんな付き合い方だけで楽しいのだろうかと。喧嘩してでも、自分の主張をすべき時はし、人の話をきくべき時はきく。
 そんな訓練を、たまにでよいからしておいた方がいいのではないかと。
 なぜなら。今は「空気を読む」ことが重要視される社会なのかもしれない。よい悪いは別にしても。
 ただ、これからもずっとそうであるとは限らない。
 あえて「空気を読まない」ことがもてはやされる時期も、きっとそう遠くない将来にやってくる気がするのだ。
 それは今の風潮への反動であり、これまでに何度も繰り返されてきた振り子なのである。
「空気を読む」技術自体は、ないよりはあった方がよいだろう。
 ただ、「空気を読み」ながらも、たまにはあえて「空気を読まない」ことをしてみるのも、よいかもしれない、ということだ。
 もちろん、実践する内容はしっかり考えた上で、ではあるが。