時に思うことがある。「人は知らないことを理解することができない」のではないかと。少し考えてみたい。
物事を理解するためには、頭の中でその対象を系統立てて思い描けることが必要である。自らの基準で、真っ当なものとして対象を都合よく整理しなおすことで、「なるほど」と人は納得し理解できるのではないだろうか。
そのため、理解できるかどうかは、その人の持つ価値基準に依存する。では、価値基準は何に依存するのか。
それは、その人の経験値ではないだろうか。
人はそれぞれ、違った人生を歩んで今に至っている。生まれた環境も、出会った人も、見たことも、聞いたことも、全く同じ人はない。それぞれが異なった経験をしている。そして、その結果、同じ現象に対しても、それぞれが異なった感想を抱くようになる。
自分が他人でないのと同様に、他人も自分ではない。自分の常識は、他人の常識ではない。同じ価値基準を持つ人は、二人と存在しないと言ってよいだろう。
そのような状況の中で、複数の人間が共通の物事を理解しようとする場合、どうしたらよいのであろうか。
それには、個々が理解の幅を広げるしかない。
とはいえ、それは容易なことではない。理解の幅を広げるためのステップを、考える必要がある。
まずは、どこまで想像力を広げられるかが重要であろう。決めつけないこと、どれだけ可能性を思い描けるか、である。
しかし、想像するというプロセス自体も、その人が持つ経験値という足場の上に立脚するしかない。自らの経験の枠を飛び越えられるとはいっても、決して遠くまで行けるわけではないのである。
であるならば、経験値を増やすにはどうしたらよいのであろうか。
例えば、読書などによる疑似体験によって、経験値を増やすことは、実際に可能であろう。
ただ、人は、同じ本を読んだからといって、同じ経験値を得るわけではない。どれだけ多くの経験値を得ることができるのかは、どのようにして本を読むか、つまり、いかに想像を膨らませながら文章を追うことができるかによっても左右される。
つまり、経験と想像という両輪を回して、スパイラルアップしていくことが重要なのである。
知っていることとは、すなわち経験値である。実際に経験したことだけでなく、想像の及ぶ範囲が経験値となる。そして、経験によって想像を磨き、想像によって経験値を増やす。経験値によって裏付けられた価値基準によって、理解が成し遂げられる。
多くの人が、広く理解という枝葉を伸ばしていけば、いずれは重なる部分も生まれるであろう。
そして、その時こそが、真に人々が理解できたといえる瞬間になるのではないだろうか。
たとえそれが、各々の経験に基づいた、各々の異なるものであったとしても。
了