はじめに、私は経済学及びその歴史については全くの素人なので、見当違いがあったらご容赦いただきたい。本論は、あくまでも私の個人的な感覚に基づいて俯瞰したものですので。
さて。貨幣経済がいつ頃スタートしたのかは詳しく知らないが、かなり昔のことであったろう。
かつては、物々交換のように「もの」や「こと(サービス)」をその場で交換する必要があった。そんな中、貨幣の登場により、「もの」や「こと」を一度貨幣という中間体へ変換することで、価値をある基準で一律に表現することが可能となった。これは、価値というものが、「時間」や「場所」から独立したものとして成立したと表現することができる。このときに、資本主義という価値観はスタートしたのではないだろうか。
価値が貨幣という形をとって独立することにより、貨幣そのものが価値となった。そのため、貨幣の収集が富(価値)の蓄積となった。個々における富の増大(及び、増大への期待)が、経済活動の原動力となっていったのである。
一方、結果として、富の集中や貧富の格差拡大が進んでいったであろうことは容易に想像がつく。
歴史の中で、革命などを経ることで、富の集中や貧富の格差を是正するために、各種の社会体制・システムが整備されていった。その中の一つの実験が、社会主義経済であったろう。しかし、顛末については触れないが、経済発展の原動力を欠いた結果として、社会主義というシステムは継続的にはうまく作動しなかった。
そして、ここでもう一度資本主義へ立ち戻る。資本主義においては、次々と生成する富を個々が収集することで経済発展が進んでいく。ただ、従来は「もの」や「こと」が富の主体であるがために、富の生成・集積スピードには限界があった。
ここでうまい手を考えた人がいた。貨幣そのものを運用することで、本来の価値以上の価値を手に入れる方法である。これは、富の集積を求める人たちによって歓迎され成功した。ここへ来て、貨幣は「もの」や「こと」からも、ある意味独立することになる。
金融資本主義と言われるこのシステムは、経済の発展スピードを向上させる効果があった一方、「もの」や「こと」の枷がない分、自己増殖・暴走しがちであった。つまり、「もの」や「こと」を伴わない、期待のみからなるバーチャルな価値が不自然に増殖しやすいのである。
世界全体の富が単純に増加していく時代においては、個々の富も増大するため、たとえ貧富の差が開いていったとしても、まだ世界的な問題にはなりにくかった。
しかし、経済が成熟するにつれて、富は単純には増加しなくなり、増加のペースも鈍くなっていく。そうなると、富の生成における金融への期待比重が増す結果として、実体経済と金融経済の乖離は加速的に増大する。この乖離が無視できなくなるほど大きくなると、次第にチキンレースの様相を呈し、日本のバブル崩壊やリーマンショックなどの形で破綻が表面化した、と考えられる。しかしながら、破綻が表面化しても、金融資本主義以外で立ち直る方法がない以上、格差の是正効果はほとんどない。結局、貧富の差の極端な増大は続き、世界の大きな問題となっている。
これが金融資本主義の問題の本質である。しかし、だからといって単純に「もの」や「こと」に立脚した資本主義へ戻れば問題が解決するのかというと、そうも簡単ではない。
先に述べたように、世界の富は単純には増加しなくなっており、増加のペースも鈍くなっている。もはや、個々の富が増大しにくい時代となっているのである。
個々における富の増大が経済発展の原動力であるならば、資本主義もまた問題を内包しているといえる。それは、経済発展の原動力喪失の危険性と言うこともできる。
ではどうしたらよいのか。残念ながら、この問いに対する明確な答えはまだない。
資本主義の歴史から有望そうだと分かっているのは、新たな価値を見つけ、個々の価値の増大を目指すのが適当であろうということだ。その価値は、今後増大していくものでなければならない。ただし、金融資本主義のくびきから逃れるために、この価値は貨幣では表現しにくい、または、表現するのが適当ではないものである必要がある。
そんなものが経済と呼べるのかという批判はあろうが、貨幣以外の新たな評価軸を設定することも重要だと考える。
これは、人類の社会システムの歴史の中で、貨幣経済が誕生したとき以来の価値観の変革が必要となる作業である。しかし、見つけることは不可能ではないと信じたい。多分に楽観的過ぎるのかもしれないが。
了