知ること

 新型コロナの感染者への誹謗中傷がひどいらしい。あちこちで医療従事者への偏見もあるそうだ。とにもかくにも不思議である。ではなぜ、そんなことが起こるのか。
 大きな理由として考えられるのは、「正しく知らない」ということであろうか。
 ウィルスと細菌の違いは? 飛沫感染と空気感染の違いは? マスクをすることの効果は? 手洗い・消毒をする理由は? 等々。
 これらは、自らが罹患することも含めて、新型コロナの感染拡大防止のために何をしなければならないか、それを考えるために知っていなければならない基礎知識の一部である。各個人の置かれた状況・状態によって、何が必要か、優先順位はどうあるべきかは変わってくるはずだが、正しい知識がなければ、それを判断することはできない。本来やらなければならないことをやらず、やらなくてもよいことややってはいけないことをすることにもなりかねない。
 知らないということは、その結果として、わからないから不安の要素となるもの一切合切を周囲から排除しようとする行動にもつながる(一方では、まったく無頓着にふるまう人もいる)。まさに冒頭の行動である。不安であるのならば調べればよいと思うのだが、そうでない人も意外に多い。
 一律に議論することは難しいが、その理由の一つは「コストがかかる」ためであろう。ここでいうコストとは、お金だけのことではない。むしろ、時間、労力、手間暇といった、それ以外のものの方が多い。
 実際にかかるコストは大したものではないのだが、「知るための努力をしない」という対案よりは確実にコストが大きいため、意識・無意識に関わらず、努力を避けようという力が働くのだろう。このコストの壁を超えるには、関心・興味というものが必要なのだが、残念ながらその度合いは人によって異なる。あらゆることに程よく興味を持つということは、存外に重要なことなのである。
 また、知るために調べるといっても、正しく調べることができなければ意味がないし、場合によっては、逆効果にすらなる。インターネットの普及によって、情報にアクセスするためのコストは大幅に低下したが、その中から正しい情報を選び出すコストはむしろ増加している。先入観や偏見を捨てて情報を眺めることは難しい。近年は、エコーチェンバーフィルターバブルの懸念に常に留意する必要がある。加えて、単純な陰謀論に、人は驚くほどだまされやすい。
 リテラシーの問題と言ってしまえばそれまでだが、ことはそう単純ではない。改善には地道な啓蒙・教育しかないと思うのだが、取り巻く情報技術の進歩速度を鑑みると、その道のりは長く険しい。正しく知るということは、それほど難しい。
 一方で、別に知らなくても本人は困っていないのだからよいのでは、という意見もあるだろう。
 確かに、本人はそれでよいのかもしれない。近い知り合いに囲まれた狭い社会の中では、一時はそれで問題は無いのかもしれない。しかし、知らないということは、その外にいる(ともすれば中にいる)誰かをいつか傷つけることになる。
 現在は、望むと望まざるとに関わらず、ほとんど意識することなく、遠い関係にある多くの人にも影響を及ぼすことがでてしまう。他人を傷つけうる道具を持っているのであれば、その正しい使い方を知ることは義務である。
 冒頭で述べた状況は、決して特殊なことではない。視点を変えてみれば、他にもいろいろと見つかる。少し時計の針を巻き戻せば、原発事故で福島県から避難してきた人への差別もあった。人種差別、部落差別、女性蔑視なども、おそらくは同根なのだろう。
 正しくないと思うのならば、どうすればよいのかを考える必要がある。社会全体が変わっていくためには、一人一人が変わっていかなければならない。
 だからといって、誰かを変えることは、ほとんど不可能である。しかし、自らを変えることは、難しくとも不可能ではない。
 個々人がそう信じて取り組むことでしか、問題を改善することはできないのだと切に思う。