白黒付けるという言葉があるが、世の中にはそう簡単に割り切れないものもある。そんな、白と黒の間にあるのが、グレーゾーンである。グレーゾーンは、曖昧さであると同時に、バッファ(緩衝地帯)でもある。
私は、グレーゾーンの価値の本質を、ケースバイケースとなる判断において、少しでも多くの人にとって望まし結果が得られるように考えるための余地であると考えている。
しかし、このグレーゾーンを正しく保持するには、不断の努力が必要である。
例えば、自身で判断のための努力をせず、グレーゾーンにおける判断を権力のある者に任せてしまえば、とたんに利権が絡んで、そこで腐敗が始まる。そして、まわりから腐敗を正そうとすれば、厳格なルールを適用する他はなくなる。
また、グレーゾーンにおいて、各個人が自らの権利のみを主張すれば、すぐに衝突して軋轢が生じる。そのような状況で軋轢を減らそうとすれば、最初からケースごとのルールを定めるしかなくなる。もちろん、すべてのケースを網羅することは不可能であるので、根本的な解決にはならない。しかし、次善の策として他にできることは少ない。
これらの結果として、次第にルールは微細化・複雑化していき、白か黒の範囲が広がることで、グレーゾーンの範囲は狭くなっていく。
個人的には、グレーゾーンが少ない社会は、ゆとりがなく息苦しいと思う。裁量の余地が小さく、例外が許されない社会である。それは、ある種の水戸黄門や大岡越前のいない社会でもある。
もちろん、グレーゾーンが広くとも、腐敗や軋轢が蔓延した社会では意味がない。先にグレーゾーンのことを「少しでも多くの人にとって望まし結果が得られるよう考える余地」と書いたが、「少しでも多くの人にとって望まし結果」を探し続けていくということは、実はかなり大変な作業でもある。それは、何が好ましいのかを、すべての人が自らの頭で考え、異なる意見にも耳を傾けながら議論し、互いに妥協点を探っていくという行為の積み重ねである。
一度振り返ってみたい。自らの権利ばかり主張しすぎていないだろうか。自分の主張は絶対に正しいと過信していないだろうか。相手の事情を正しく理解・想像しているだろうか。また、自分には関係のないものとして、無関心になっていないだろうか。周囲に何かをしてもらうこと・してもらえることを、当たり前だと思っていないだろうか。
今可能なことが、これからも可能であるとは限らない。一度失われた余地は、二度とは元に戻らない。
結局、自らの行いが自らの社会に跳ね返ってくるのは、避けられないのである。
了