個性と多様性

 ダイバーシティー。お台場にある商業施設のことではない。多様性という意味である。
 この用語は、人種、性別、年齢、国籍などの多様性という文脈で語られることが多い。しかし、本質を理解するには、それでは不十分であろう。
 私は、個人の在り方(見え方)を表しているのは、属性(ラベル)、個性(キャラクター)、輪郭(シルエット)であると考えている。そして、多様性(ダイバーシティー)とは、各個性を許容し認めることではないかと思う。
 属性とは、その人に付属している分類記号である。人種、性別、年齢、国籍だけでなく、所属する学校や会社、職種、趣味・嗜好、地位・身分、結婚や子どもの有無、居住地など、分類可能なありとあらゆるものが、このカテゴリーに含まれる。
 個性とは、属性をベースにして形成されている、各人固有の性質である。
 輪郭とは、個性を反映して表れる行動・考え方である。それは、とあるシチュエーションという指向性の光を個性に当ててできる影絵のようなものである。シチュエーションが変われば輪郭は変わるが、個性を反映したものであることは変わらない。
 しかし、個性は、属性をベースにしてはいるものの、属性のみによって決定されるものではない。たとえすべての属性が同じであったとしても、考え方・感じ方は各人で異なる。そのため、属性をいくら積み重ねても個性を説明することはできない。
 一方、いくつもの輪郭をもとにして、その人の個性を推測することも行われる。しかし、すべてのシチュエーションを網羅することが不可能であるため、完全に個性を求めることはできない。
 このように、個性そのものは、各人で異なりつつも、ブラックボックスのように中身を説明することが不可能な非言語的存在である。
 そのため、多様性とは、すべての個性が異なることを許容し、その個性が明らかでない(完全には分からない)まま、受け入れ認めることに等しい。それ故、多様性を受け入れることは、各個性が孤独であることを受け入れることでもある。
 孤独であることに不安を感じ、孤独を拒絶し群れを作ろうとする行為は、群れから排除される存在をつくることに繋がる。そのため、そのような行為から多様性を実現することはできない。
 無知であることが不安に繋がるのならば、まずは排除ではなく、少しでも謙虚に知る努力をしなければならない。そして、すべての人が個性としてはフラットな関係にある(上下関係や優劣ではない)のだと、認識を変える必要がある。
 目指すべき先は長いのであろうが、いつかはたどり着きたい境地である。