差別について論じるのは難しい。
違うということを語る際に、どこからが差別となり、どこまでが差別ではないのか。それはまた、平等と格差の問題にもつながり、何が不当かということにもつながろう。
個人的には「完全なる機会の均等の結果による違いであれば、それは差別ではなく、正当な区別である」という立ち位置である。そのため、私にとって「差別」と「区別」について考えるということは、その前提条件である機会の均等について考えることでもある。また、究極的には「完全なる機会の均等」が得られるべきだと思ってもいるが、一方で、完全なる機会の均等は実現できないという自覚もある。
例えば、身体に障害のある人では、善し悪しは関係なく、どうしてもできないことがある。そうでなくとも、個人の能力・特性により、できることとできないことがある。この場合、挑戦する機会さえ与えられているのならば、できないこと、つまり、できないという状況であることは、差別と言えるのだろうか。
いろいろと批判もあるだろうが、私なりに考えた結論を書いておく。
私は、望む場合に、施策的もしくは物理的に、機会の均等を実現することが可能かどうかによって考えるべきではないかと思う。
施策的というのは、例えば、性別、人種、貧富などによって門戸を閉ざさないということである。一部の年齢制限のように合理的な理由があるものを除き、入口は同じように開くべきである。ただし、合理的な理由というのはくせ者なので、その内容については科学的な裏付けをもとにした議論が必要であろう。
物理的というのは、技術的(例えば医学的や工学的など)と言い換えてもよい。一般的な技術・工夫によりハンディキャップを克服できるのであれば、本質を変えない限り、その使用を認めるべきであり、必要かつ求める人への普及を啓蒙すべきである。眼鏡や補聴器などは既に一般的になっているものだが、それと同じ考え方である。
もちろん、現在の技術では実現が不可能、もしくはかなり難しいものもあるだろう。その場合、一旦、機会の均等が得られないことについては不問とする。ただし、将来、技術的な進歩があれば是正が必須であるし、実現できるよう技術を進歩させる努力をすべきでもある。それは、いつか多くの人にとってもメリットになり得るだろう。
そして、求めるべきは、機会の均等であって、結果の均等ではない。また、機会の均等とは、入口に立つ時に手にしているものが皆同じであることを意味しない。その人の成した努力や持って生まれた才能・性質は、否定されるべきものではない。
結果として違うということは、多くの場合、問題ではない。現在において機会が均等に与えられていないこと、さらに現在の技術では機会を均等に与えることが不可能であること、そちらの方が問題である。
多様性・違いは認められるべきものである。そこに本質的な優劣はない。ある一つの基準で優劣が付けられたのだとしても、他の基準では必ずしも同じ順序にはならない。自分の基準に妄執し他を認めないことは、自覚の有無を問わず、害悪になろう。
差別とは何か。一度、自分の言葉で考えてみることをお勧めしたい。
了