公共と芸術

 愛知の芸術祭で、とある展示会の開催と閉鎖が大きな話題となっている。
 すでに各所で報道されているので、経緯などの詳細はそれらを参考にしてもらった方がよいのだが、芸術について考える機会でもあったので、自分の考えをまとめてみることにした。
 まず、私の立ち位置をはっきりさせておく。私は、表現の自由や言論の自由は比較的広い範囲で守られるべきだと考えている。自分と意見の異なる物事に対して、暴力や脅迫をもってあたることには強く反対する。
 さて、その上で今回の騒動を振り返ってみたい。
 今回の問題の発端は、展示作品の政治問題へのメッセージ性が強すぎたことであろう(そういう作品を集めた展示なのだから、当然ではあるのだが)。そのため、一部の政治家や異論を持つ人たちからの強い反発により、展示会は短期間で中止に追い込まれた。
 彼らの言い分に従えば、これらの作品は芸術ではないということになる。
 確かに、過度に政治的な作品を芸術を見なすことには違和感がある(芸術ではなく、アピールである分には問題ないのだが)。
 では、芸術に政治性・社会風刺性という軸を考えた時に、どの程度までが芸術と言えるのだろうか。
 実は、作品における政治性・社会風刺性の多少を見積もることは難しい。明確なメッセージを打ち出しているものから、一見しては分からないものもある。全く影響がないように見えても、社会を生きている作者は、何らかの影響を受けているはずでもある。
 政治性・社会風刺性は、時代によって変わるものであるのかもしれないし、受け止める人によって変わるものであるのかもしれない。
 この点について、昔から世間での議論はつきないが、しかし、同意を得ることはほとんど不可能なように思われる。
 そして、同様の軸は他にも無数に存在する。
 その結果、各個人はそれぞれの芸術の定義を主張することになる。つまり、芸術の定義は個々で異なる。それは、明確に説明できるようなものではなく、感覚的かつ個人的なものであり、信念に近いものであろう。
 そういった意味では、考え方は宗教と似ている。それならば、表現の自由は、信教の自由について考えると分かりやすい。
 ならば、公共団体や自治体・政府は、直接的に芸術を取り扱ってはいけない。やむを得ず取り扱わなければならない場合は、細心の注意を払って行わなければならない。(公平に)金を出しても、口を出してはならない。
 基本的な考え方は、政教分離と同じである。
 これが、現在のところの私の結論である。