最近、アートフェスティバルというものについて話を聞く機会があった。○○○ビエンナーレ、△△△トリエンナーレ、□□□芸術祭などといった名前をきいたことがあれば、そういった類いのものと考えると分かりやすい。短時間ではあったが、その場でいろいろと興味深い話を聞くことができたので、少しアート(芸術)というものについて考えてみることにした。いつものように、全く裏付けは取っていないので、個人の勝手な感想の域は出ていない点には注意してほしい。
アートフェスティバルは、地域振興の一策として見られることが多い(実際にそういう目的で開催されることも多い)。かなり昔に◎◎◎博が全国で流行ったように、これが現在の流行のようだ。それを、芸術サイドから見直してみようという話であったと理解している。これまでの美術館や博物館に展示されている「作品」こそがアートであるというところから一歩踏み込んで、周りに影響を与えるものをアートとしてとらえ直そう流れがあり、その文脈で参加型のアートとしてアートフェスティバルをとらえることができるらしい。このあたりは専門ではないので、認識が間違っている可能性は多々あるのだが、個人的には「他人(自分以外の人間)に対して影響を与えようとする人為的行為」をアートとしてとらえようという(少なくとも)一派があるのだと理解している。
アートフェスティバルとは、アートというものを特定の空間・様式から解き放とうという行為であったのだろうか。それは、高みを目指すあまり世界から孤立し、進む先の明確な展望を得られないアーティストの閉塞感に対する、一種のアンチテーゼだったのかもしれない。
では、「他人に対して影響を与えようとする人為的行為」について、少し踏み込んでみる。理解が違っているかもしれないが、まず定義をしっかりしないと議論が始まらないので、先へ進めることにする。
「他人に対して影響を与えようとする人為的行為」と定義したといっても、実は、ほとんど何も定義できていないに等しい。影響を受けた人間がいったいどれくらいいれば、それはアートとして認定されるのか。そもそも、影響を受けた人間がいなくとも、影響を与えようとする意図さえあれば十分なのか。そしていったい誰が決めるのか。
また、アートフェスティバルに出展されている各アーティストの作品があるという状況で、アートとして見なされるのは、各アーティストの「作品」であろうか、作品を含む「アーティストの行為・行動」そのものであろうか、すべてのアーティストの作品と行為・行動を包含する「アートフェスティバル自体」であろうか。「影響を与えようとする人為的行為」がアートというのであれば、「アートフェスティバル自体」がアートとなりうる。ならば、その中の「作品」や「作家の行為・行動」は必ずしも必要ではない(少なくとも従属的である)と言うことも可能である。そうならば、実はアートは、アートフェスティバルという形を取る必要すらない。「他人に対して影響を与えようとする人為的行為」とは、人間の活動そのものである。結局、アーティストと一般大衆の区別はなくなり、アートは日常と同義語になってしまう。
一方で、「作品」や「作家の行為・行動」を主体ととらえるのであれば、アートの発展にはパトロンの存在が必要であったように、アートフェスティバル自体はパトロンに過ぎないと見なすことになりうる。
しかし、こういった感触には、何だか違和感を感じるのもまた事実である。「他人に対して影響を与えようとする人為的行為」であったとしても、9.11をアートととらえる人はまずいない。政治家の演説や先生の授業も然りである。
ならば、この違和感の正体は、「他人に対して影響を与えようとする人為的行為」という定義自体の誤りなのであろうか。結局、アートとは「人がアートとして認識したもの」としか定義できないのであろうか。そうならば、アートについて人々が同じ目線で議論することはできない。主催者、参加者、地域、地元などと言った区別は一切関係がなく、ただ主観があるのみである。しかし、アートが主観によるものであり、何がアートであるかを定義するのが(言い換えれば、価値あるものとして見なすかが)不可能なのだとしても、どちらを向けばいいのかくらいは分かるのではないかというのは希望であろうか。
アートとは、いくつかの頂を持った山の集合体だと考えてみる。どの高さから上をアートとして定義するのかだ。山頂から裾野の間に明確な境界があるわけではないので、各人が勝手な理屈を付けて境界線を引いていく。アートはどうあるべきかやどうすべきかという議論は、頂上を目指すのか裾野を目指すのかということも含め、境界線を引き直す議論に帰結する気がしている。
前に述べたように、頂上を目指せばガラパゴス的に孤立化し、裾野を目指せば日常に溶け込み霧散する。ならば、その間のふわふわした空間を漂う雲の映った影こそが、アートというものを定義するのかもしれない。
了