不便を楽しむ

技術の進歩は速いものである。ついこの間まで不可能であったことが、いつの間にか可能になっている。
友達と電話で話をするにも、まず家の電話にかけて、家の人に取り次いでもらわなければ話すことができなかったのに。今では携帯電話にかけるのが当たり前になった。
遠くの友達と連絡を取るには、葉書が手紙を書く必要があったのに。今では電子メールで手軽にやり取りできるし、ビデオチャットなら顔も見られる。SNSに登録すれば、普段の生活を知ることもできる。
駅で待ち合わせをするにも、時間と場所をあらかじめ決めておいて、何かあったら駅の伝言板に書き込んでいたのに。今ではおおよその場所だけ決めて、携帯電話で連絡を取り合うようになった。
車で遠出する時には、あらかじめ分厚いロードマップを買って、どの道を通ったらいいのか考えて、当日は間違えないように気を付けて運転していたのに。今では、カーナビが代わりにルートを選んで教えてくれる。
少し思い返してみただけでも、これだけの変化があった。IT関連以外でも、家電、雑貨、玩具など、あげれば枚挙にいとまがない。
では、なぜ変わったのかといえば、それは「便利」だからである。作ったメーカーも、こんなに便利になりますよとアピールをする。今まで苦労していたことが、さして苦労することなくできるようになるという、その甘美な魅力に、私をはじめ多くの人が魅了されていった結果である。その結果、世の中の大半が「それ」を使うことが当たり前になると、もはや「それ」を使わないという選択肢自体が取りづらくなる社会になっていく。
便利さを手に入れることで、得られたものはいろいろとあるだろう。でも、振り返ってみたとき、失ったものも、同じくらいあることに気が付くだろう。
技術の進歩を悪いと言うつもりはない。むしろ、進歩を重ねることで、人類はここまで歩み続けてきたと言える。
しかし、便利になることだけが、人にとってよいことなのではないとも思うのである。
不便であるからこそ、工夫をする。大変であることを経験することで、できることが増えるようになる。分からないからこそ、想像力が養われる。
先にも書いたが、友達と電話で話すために家の人に取り次いでもらわなければならない時代があった。不便ではあったが、結果的に目上の他人と電話で話す方法を学んだ。もちろん、直接話せればいいのにと思ったことも多々あった。
極端なことはよくない。きっと、「普段は家の人に取り次いでもらわなければならないが、年に3回だけ友達と直接はなす事ができる」あたりの状態がよいのではないだろうか。そうすれば、その3回をいつ使うのか選択するという経験もできるのだから。
便利になること自体が悪いとは思わない。でも、少しくらいは自分の力だけで、技術の進歩に頼るのではなく、便利さを勝ち取る機会があってもよいのではないか。
もっと言えば、たまには不便を楽しんでみるのも、よいことなのだと思う。不便から得られるものを楽しむ余裕こそが、便利さの追求よりも、時には大切なのだと思うのである。